淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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Πάντα ῥεῖ

固有の戦場

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固有の戦場

 世界が傾いていることに気付いているのは世界で僕だけだった。なぜなら、世界中の僕以外のすべての人は世界と一緒に傾いていってしまっているようだったから。だから世界中の誰も世界が傾いていることには気付けないし、世界の僕以外の人間から見たら僕の方が傾いているように見えていたが、それでも僕は傾いているのは世界だとア・プリオリに知っていた。

 世界は日々傾斜を強めていき、僕はだんだんこの世界に暮らしにくくなってきた。道を一人だけ正しい角度で、つまり街の他の人間からしてみたら大きく斜めになって歩くのは、人にぶつかるし、ドアには入りにくいし、誰かと喋るのも一苦労だし、悪いことずくめだった。そして次第に僕と世界との角度は直角に近くなり、地面はどこまでも立ちはだかる崖となり、僕はそこに必死に捕まりながら一方向にずり落ちていくしかなくなった。全身を大根おろし器に掛けられたように擦りむきながら、僕は世界が僕を殺そうとしていることに気付いた。

 世界は僕を振り落とそうとしている。僕は逆さまになった世界で空に向かって落ちていかないように必死にビルの入り口のスロープの手すりに捕まっている。僕から見れば、全ての人が天井に逆さまにぶら下がって何食わぬ顔で歩いている。さすがの僕も間抜けなのは奴らであり自分であると主張する気力を失いかけていた。もし彼らが言うように正しいのは彼らで間違っているのは僕だったとしたら、それはもちろん僕が間抜けだと言うことになる。それは前から分かっていたことだが、今では、例えやっぱり奴らが間違っていて僕が正しいのだとしても、それでもやっぱり僕が間抜けなような気がしてきたのだ。たった一人で世界にこんな風にぶら下がったり、たった一人で世界をこんな風に逆立ちして見たりするのは、やっぱり間抜けなのだ。

 そんな時、街の向こうから、逆さになった人影が近づいてくる。いや違う、逆さになっているのは街であり、世界なのだから、正しい向きの人間が僕の方に近づいてくるのだ。

 それは女性だった。必死な顔をして今にも手のひらから抜けてしまいそうな柵に捕まって、窓の出っ張りに飛び移ろうとしている。汗だくで、握力はなくなってしまっているのが見て分かる。それでもあきらめようとしない。遠くから僕を見つけて、僕のところへ来ようとしているのだ。

 僕はもう死ぬまでそこを動かず、そこで死のうと思っていたにもかかわらず、居ても立ってもいられなくなって、手すりから手を離し、街路樹の枝に捕まって、僕の方からも彼女を迎えに行った。

 しかし、どうやら彼女の方からも僕の方からも相手には辿りつけないようだ。間に昔地上げ屋に荒らされそのまま空き地のまま放置されているような土地があり、足場や掴む場所がないのだ。僕らはお互いに目を見合わせ、どちらかということもなく、この世界から手を離した。一直線に空へと落ちていく僕らは、頭上で次第に遠ざかっていき豆粒のようになっていく人間たち、積み木のおもちゃのようになっていく建物、単なる模様のようになっていく世界をしり目に、雲の中で互いに伸ばした手を掴みあわせ、互いに互いの体を抱き寄せあった。

 世界との長い孤独な戦いのあとで、ようやく見つけた世界でたった一人の戦友なのだ。僕らは雲の中を一つになってまるで打ち上げられたロケットのように加速しながら、だんだんと暗くなる空へと落下する。

 しかし幸せなときは長くは続かない。僕らは目を見合わせた。そこには驚きと悲しみと、そして真相を知って笑いだしてしまいそうなユーモアが込められていた。僕らはだんだん互いに反対の方向にまた傾きだしていた。どうやら僕らが同じ方向に立っていたのは、単なる偶然の一致に過ぎなかったようだ。しばらくはお互いの腕の力でお互いの顔を見つめあい続けることも出来るだろうが、それにも限界がある。そんなことはお互いすでに経験済みのはずだ。しかし僕らはそんなことに絶望したりしない。相手が同じ戦場を戦う戦友ではなかったことよりも、違う戦場を戦う者同士が一時的とはいえ心を通わせ合ったことの方が大事なのだ。僕たちは見つめ合いながら、手を離し、大切な思い出を貰ったことを感謝しあいながら、一人ひとりの戦場を戦うために、それぞれの角度で落ちていった。すぐにお互い見えなくなってしまった。

解説

どこまでも虚空に落ちていく話はなんか実際に書けてる以上に何回も考えてる気がする。

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