淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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In the long run, we are all dead

プラモデル

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プラモデル

 プラモデルの喜びは、なんといっても箱を開けた時の高揚感だ。ふたをするように入れられた組み立て説明書を除けると、ランナーに繋がれた部品がいくつもいくつも折り重なっている。大きな部品に小さな部品。とても精巧にできている。この状態では、完成形は全く想像ができない。いや、もちろん組み立て説明書には完成図が載っている。しかし、目の前の部品がそのどこに使われるのかを推理するのは非常に難しい。だからこそ、想像の羽は羽ばたくのをやめられない。一体これは何だろう、と小さな部品を矯めつ眇めつしながら、笑みがこぼれる。さっさと組み立てればいいではないか、と思うかもしれないが、この至福の時間を少しでも引き延ばしたいのかもしれない。

 組み立て説明書も読む。手順は正直、実際に組み立ててみないと読んでもよくわからない。とりあえず、最初に切り離さないといけない部品だけは確認する。そこでニッパーに手が伸びそうになるが、その前にもっと文章も読んでおこう。取り扱い説明書には、そのプラモデルに関する様々な情報が併記されていたりする。自分が今から作ろうとしているものの来歴を知っておくのもいいことだ。ちょっとした小ネタが入っていることも多い。子供向けのものやアニメファン向けのものだと、漫画が載っていたりもするのだ。この説明書にも、ちょっとしたストーリー仕立てになっている文章が載っている。どうやらプラモデルを組み立てようとする人物が主人公のようだ。少し興味が湧くが、それなりの量の文章なので、後で読むことにしよう。

 ニッパーを使って、順番に部品を外していく。なくさないように気を付けて、作業台に並べる。そしてカッターや紙やすりでゲートの跡を綺麗にしていく。完璧に滑らかになったら、慎重に部品同士をはめ込んでいく。小さな部品はピンセットで扱う必要がある。場所によっては接着剤を使う。順番を間違えると、修正することは困難だ。緊張する。指先が震える。

 だんだんと大きな塊が姿を現し始める。完成予想図と見比べても、それがどこに当たるのかが明らかになっていく。そうか、これはこうなるのか、という新鮮な驚きに目を見張る。意外な部品が意外な全体の一部になっていく。一見無関係に見える部分と部分が有機的に絡み合いながら、豊穣な調和を奏で始める。なるほど、こことここが合わさるわけか。だんだんと組み立て説明書を見なくても、次にやるべきことが分かるようになっていく。この行為はもしかしたら、理解と呼ばれる現象の素晴らしい模型になっているのかもしれない。今感じている喜びも、理解の喜びの手軽な類似品と呼べるかもしれない。

 そんなことを考えていたら、とうとう完成してしまった。ランナーにはもう一つも部品はなく、ただ枠だけになっている。整然と並べられていた部品ももうない。ちゃんと確認したから確実だ。そして、その結果として組みあがったのは、箱から出したときのランナーに繋がれた部品たちを、一回り小さくしたようなランナーに繋がれた部品たち。

 そう、これはプラモデルのプラモデルなのだ。部品を外して組み合わせると、組み立てる前のプラモデルが一個完成するのだ。さらに完璧を期するために、隙間などにはパテを埋め、デカールを張り、塗装をしていく。これでどう見ても新品のプラモデルにしか見えなくなる。

 完成品を手の中でくるくる回しながら鑑賞する。なかなかの出来だ。誇らしい気持ちが沸き上がる。しかししばらく見ていると、別の気持ちが沸き起こる。本物そっくりだからこそ、本物として扱いたくなる。ランナーに繋がれた部品が、一体どんな機能を果たすのか確かめたくなる。それらが組み合わさって、一体何が出来るのか、実際に見てみたくなる。手がニッパーに伸びる。

 このプラモデルのプラモデルは、見た目が本物そっくりなだけではない。実際にニッパーを使って部品を取り外し、組み立てることもできるのだ。もちろん、部品は全て先ほどより小さくなり、難易度は上がる。だが、ピンセントとルーペを駆使すれば、決して不可能ではない。慎重に慎重を期して組み立てていった結果、さらに小さなプラモデルの部品が出来上がるのだ。

 これを何回も繰り返す。終わりはない。最後には走査型電子顕微鏡を使いながら、万物の最小構成要素一つ分の精度で部品を操作した。

 しかし、終わりがないと言っても、それは理論的な話。実践的にはいつも終わりが来る。それは、必ずどこかでミスが入るからだ。入り込んだミスはテント写像のように何度も広げられては折りたたまれて、予測不可能な変化をもたらす。その結果、どこかで組み立てた結果が次のプラモデルの部品ではないものになってしまうのだ。

 例えば木などの植物、例えば馬などの動物、そして人間もこうして作られた。しばらくは置く場所に困っていたが、ある時間違えて作ってしまった宇宙と読んでいる入れ物に、すべてを収納することにした。宇宙の中に、光り輝く星々をいくつも作り、その周りをまわる惑星の一つにそれらの生命を置くと、うまく根付くことが分かったのだ。そして間違えて作ってしまった地形や建物などに彼らを住まわせた。モデラーの多くがジオラマにハマる理由がわかってきた。

 実はプラモデルを作るのに利用している道具、ニッパーやカッターや紙やすりなども、みなこうしたミスによって作られた。これらは大いに役に立っている。

 しかしそれでも本当の目的は、限りなく終わりなくプラモデルのプラモデルを作り続けることなのだ。

 しかし、ふと間違えて作ってしまった宇宙を覗いてみると、間違えて作ってしまった人間たちが、自分たちなりのプラモデルを作って遊んでいる光景が目に入り、間違えるのも悪くないかもしれないな、と思ってしまったりすることもあるのだ。

 こうして今日も今日とて、間違えて何かを作ったりしている。最近間違えて作ってしまったものの例を少しあげると、概念、普遍、言語、文法、クオリア、トロープ、神、私、そしてこの小説である。

 間違えて作ったとはいえ、せっかくできてしまったのだから、有効活用したいものだ。何か、これらを組み合わせて、面白いものでも作れないものだろうか。

解説

Twitterで入れ子になっている文章を書いてたら、自称私の「年季の入ったファン」さんが褒めてくれて、確かにこういうのこそ私っぽいよな、と思って書いた

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