蛹の日
川平彩子は極彩色の死の夢から悲鳴とともに目を覚まし、夜の暗い静寂に響くその余韻に耳を澄ました。卵を内側から割って這い出ようとする胸の鼓動と、頭蓋の奥で羽ばたく耳鳴り以外、何も聞こえない。毛布を握りしめてしばらく震えているとだんだん落ち着いて来て、もうあの金粉をまぶしたような夢の内容も、定かには思い出せなくなる。彩子は水を飲もうと、ベッドから降りて、素足のままぺたぺたと廊下に出る。きっとまだ少し寝ぼけているのだろう。あの夢のお腹の中にいるみたいに床や壁がぐにゃぐにゃして、裸の足の裏がひたひたと濡れているみたいに感じる。深呼吸して、気をとりなおすと、壁のぐにゃぐにゃは止まった。でも廊下の床は相変わらずぬらぬらと湿っている。大きな蛞蝓が這い回ったみたいだ。常夜灯に反射して、きらきらとその道筋が見える。それは廊下を真っすぐに進んで、明かりがついたままのキッチンに入っていっている。そこに倒れていたのは、いつも遅く帰ってくる父親だった。まだスーツも脱がないまま、床に倒れふしているその体の周りが、薄緑の粘液でべたべただ。
お父さん!
彩子は驚いて駆け寄り、肩を揺らそうとするが、手のひらについたキャベツの汁のような臭いの糸を引く液体に思わず手を引っ込める。顔や手など、肌が出ているところはもう表情が見えなくなりそうなほど、どろどろになっている。でも服を着ているところは、まだ湿っている程度だ。一体これはどういうことなんだろう。理解できず、立ち尽くしていると時間だけが過ぎていき、そのことに驚いて、母親の寝室に走る。
お母さん! お父さんが!
意味のある言葉は何も出てこず、ただ叫びながら、シーツに包まれた母親の体を揺らす。シーツがじっとりと濡れていた。意味のない叫びすら、喉に引っかかって出てこなくなる。
お母さん?
母親の体の向きをごろりと変えると、長い髪が頬や首筋にべっとりと絡み付いている。耳や鼻や口、それだけでなく体中の毛穴からしみ出してくる青臭い粘液が、枕にしみ込んだあと堅く乾きはじめて、体の向きを変えると一緒についてくる。シーツ自体も、母親の体と一体化してしまっている。彩子はたじろいで、ベッドから離れようと後ずさる。背中にごつんと何かが当たる。半年前、生まれたばかりの弟だ。弟の体はすっかりもう粘液に包まれて、おぼろげな影としかその体が見えない。粘液は固く固まって、その中から弟を助け出すことも、もう出来そうにない。
こぽこぽと何かが泡立つ音。母親の口が動いている。彩子は、懸命に手を動かして、固まりかけの気持ちの悪い液体を、母親の口の周りから取りのける。
ごめんね。
母親が言った。
お母さん! 大丈夫なの!?
しかし彩子の声は母親には届いていないようだ。ただ、存在だけは感じているのだろう。
今まで黙ってたけど、あなたはわたしたちの本当の子どもじゃないんだよ。
なんで今そんなことを言い始めるんだろう。彩子には理解できない。
あなたはね、施設から貰ってきた、魂のない人間なの。
魂? 一体何のこと?
魂は肉食で大食いだから、みんながみんな魂を持っていると、魂たちは餓死してしまうの。だから、あなたみたいに魂のない人間が必要なの。ごめんね。
母親の声にごぼごぼという音が混ざる。
いつか言おうと思ってたんだけど、こんなに早くこの日が来るとは思っていなくて……
お母さん? お母さん!
彩子は一生懸命にその液体を払いのけようとするが、まるで井戸のように後から後からそれは湧いて出る。いつの間にか、母親の体もすっかりぶよぶよと弾力のあるゴム状の物質に覆われてしまう。
自分の手の周りでも黄緑色のものが固まろうとしているのを感じて、彩子は急いでまたキッチンに向かう。スーツが内側から破れ、すっかり人間サイズの何かに変わってしまった父親を跨ぎ、一心不乱に水道で手を洗う。手洗い用の石けんではなかなか落ちず、食器洗い用の洗剤まで使って、なんとかそれを洗い流したとき、彩子はしばらく忘れていられた現実に向かい合わなければいけないことに気づいた。でも、一体どうすればいいのだろう。警察、救急車、親戚、友達、思いつくあらゆるところに電話を掛けたが、機械音声以外の誰かが出ることは無かった。
しばらくして、電気が消えて、電話も繋がらなくなった。
それからはずっと、明けそめていく東の空を、母親の寝室の窓から眺めていた。魂の無い人間も夢をみるのだろうかと、考え続けながら。
地平線の下からの太陽の一触れが、濃い紫の空に血のような紅をにじませる頃、ごそごそとキッチンで物音がした。見に行く勇気は出なかった。すぐに見に行く必要もなくなった。同じ物音が、母親のベッドと傍らのベビーベッドでしはじめた。ぴりぴりと音がして、あの黄緑色の物体が大きく裂けて、中から肉が腐った臭いが吹き出す。そして、窓から差し込む朝焼けに照らされて、ゆっくりと濡れてしわしわになった羽が中から現れる。次第に乾きながらピンとしなやかにその四枚の羽を伸ばすと、金属光沢を持った青緑赤のきらびやかな編み目模様が目を射る。見る角度を変えると色や光りかたが変わり、ホログラフのように夢幻的な立体模様が浮かび上がる。少し羽ばたくだけで光り輝く鱗粉が舞い飛び、油の浮いた水たまりのように虹色に色づいた。
その立派な羽の根元にぶら下がっているさほど大きくない体を見ると、それは六本の足の生えた胸の下に、珊瑚蛇のような縞模様の腹がぶら下がり、頭にはその半分以上もある巨大な複眼が全ての目で彩子を見つめ、その下には大きな顎が開いたり閉じたりを繰り返している。
弟のベビーベッドからも、小さなそれが飛び立って、目が痛くなるほどの鱗粉をまき散らす。開いていたドアから、もう一匹が入って来て、所狭しと天井を飛び回る。
突然、それらが鳴いた。それを鳴くと言っていいのなら。彩子は耳を押さえながらもんどりうって倒れた。その顔の上に割れた窓ガラスが降りそそぐ。そして、三匹が一斉に彩子の体の上に舞い降りて、その大きな顎で体中の肌を切り裂きはじめた。
痛い! 痛い! やめて! やめてよ! お父さん! お母さん! あたしだよ! わかるでしょ! やめてよ!
彩子は泣き叫びながら、手足を振り回して、なんとかその攻撃から逃れようとする。彼女の耳に、嗄れた、だけど確かに聞き覚えのある声が聞こえる。
暴れてはだめ。
それは母親の声だった。ベッドの上の蛹の中から、彩子に向かって這い出してきている。その体は見る影も無く萎びていて、背中には大きな裂け目があり、内側には内蔵らしいものがほとんど見当たらない。蛹からはい出したときに、片足がぽろりと抜け落ち、ベッドから転がり落ちるときに、もう片足もとれ、地面を這い進もうとして踏ん張った手は、ぐじゅぐじゅと崩れ落ちた。
あなたはわたしたちの魂の為に育てていたの。だから、あばれちゃだめ。
お母さん! お母さんはお母さんだよ! こいつらじゃないよ! こいつらはお母さんじゃないよ!
そうよ。これはお母さんたちの、魂だもの。
彩子は母親に助けを求め続けるが、もう返事はない。見れば、首から下がすでに半ば溶け落ちて、声も出せなくなっているのだ。
魂たちの顎が、首筋の頸動脈を切り裂いて、飛沫を上げて血が流れ始める。魂たちは、おいしそうにそれを嘗めとっていく。薄れ行く意識の中で、彩子は懸命に窓まで体を持ち上げる。割れた窓から見た町では、すべての家々から朝日に黄金色に輝く魂たちが舞い上がり、雲一つない青空に向けて、極彩色の竜巻が立ち上がっていた。