巨人×大鵬×卵焼き
巨人がビルの谷間を足音を立てて歩いていく。近くにいた人々は揺れて捲れ上がるアスファルトにしがみ付くのみで何も出来ない。遠くの人々はその光景を呆然と眺めるばかりだ。
巨人はその顔つきは精悍、肩幅は広く、腹筋は割れている。ビキニパンツ一丁で、茫々たる胸毛を生やし、踵は旱魃の大地のようにひび割れている。
その巨人が何かを待ち受けているように遠くを見つめている。その視線の先にあるのは、巨人と比べてもまだ大きい大海原。
巨人の顔つきが変る。何かが見えたのか。何が見えたのか。
地球の丸みの向こう側で何かが跳ねる。鯨か。いや違う。信じられないほど大きな魚が、陽光に鱗を光らせて、身を躍らせているのだ。それが一際高く飛び上がった瞬間、旧正月の爆竹のように弾けたかと思うと、水平線のような翼をゆっくりと波打たせ、ゆらりと浮かび上がった。それは空を覆うような巨大な鳥だった。
それを見た巨人は胸をどんどん叩きながら凄まじい咆哮を上げる。周りの窓ガラスが一瞬で砕け散り、きらきらと氷のように美しく輝く破片の雨が、蹲って気絶している通行人の上に注いだ。
巨人が走り出した。あまりの巨大さにそれは。遠くからはまるでスローモーションのように見えた。しかしたった一歩で街路の一ブロックを跳び越しながら、徐々に加速していくその体の回りで発生する激烈な空気の流れは車を引っ繰り返し、街路樹を根こそぎにしていく。そして巨人が地面を思い切り蹴ったとき、地下鉄、上下水道管、電線や光ファイバー、さまざまな都市生活を支える地下構造物は全て粉砕され、大きく陥没した爆心地に向かって同心円状に、磁石の極の周りの砂鉄のごとくビルが倒れていく。
コンクリートで物質化された現代思想であるところの都市は敗北を喫したのだ。
巨人は飛び上がる瞬間、まるで飛び込みをする水泳選手のように両手を進行方向に向けてそろえて伸ばした。音速を超えた瞬間、発生する衝撃波を肉体に直接受けないためである。しかし、地上でそれを見たいた人々はことごとく吹き飛ばされて、目と耳と鼻から血を流しながら悶え苦しんだ。
巨人はまるで弾丸のように地上から飛び出すと、一直線に巨大な鳥に向かって飛んでいく。然しもの巨人も、その鳥の前では蚤のようだ。その蚤が影で地上を覆いながら、ゆっくりと都市の上空を通過していく鳥の腹に飛びつき、羽毛を掴んでぶら下がった。
未だに意識を失わないでいることを許された数少ない人々は、血の滲む視界でそれを見上げた。その姿はこの世のものとは思えなかった。
巨人が羽毛の中でもがいている。潜りこんで見えなくなったかと思ったら、顔を出して場所を変える。それを何回か繰り返したあと、巨人は町から去ろうとしていたその鳥から飛び降りる。彼の背丈と少しくすんだ白色の球形に近い物体を両手で頭の上に掲げている。
それは卵だった。彼は大鵬の卵を手に入れたのだ。きっと家に帰って奥さんに卵焼きを作ってもらうに違いない。日本人ではない巨人には、まさか生で食べるなんて発想は起きないのだ。衛生上問題があるように思えるだろう。きっと卵焼きだ。砂糖をたっぷり入れて甘い奴だ。そうに違いない。息も絶え絶えになって彼の勇姿を見上げている人々はみんなそう思ったに違いない。巨人の顔はいまや、満面の巨大な笑みに占められている。
そのとき悲劇が起こった。ちょうど彼の着地地点にトレーラーがあったのだ。さらにひどいことにサイドブレーキが引いていなかった。緊急時だったから仕方がない、などという言い訳は通じない。
巨人はあえなく足を滑らせて卵を持ったまま背中からずっこけてしまった。当然卵は砕け、黄身も破け、巨人はぐちゃぐちゃの解き卵まみれになってしまった。彼の鼻先にカラザが引っかかっている。
彼は泣いた。おんおんと声を上げて泣いた。ぼろぼろと涙を流して泣いた。
彼が泣いていることを責める人々はいなかった。気絶しているか、さもなくば死んでいたからだ。