淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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Hamiltonの夢

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Hamiltonの夢

 通風の痛みに思考を掻き乱されながら、ウィリアム・ローワン・ハミルトンは飲んでは書き、書いては飲んでいた。乱れた字で記されていくは、四元数の基礎応用また展望。しかし、目がかすみ、字がぼやけると、なぜか同時に証明の道筋も靄がかかった如く輪郭を曖昧にし、自分が今必死に読み直そうとしているのが、草稿に書き込まれた全く新しい定理なのか、ペン先から垂れたインクの染みなのか判然としなくなる。

 いやそもそも数学の定理とは、意味を持たない形式化されたインクの染みにすぎないのか。

 しかし、これはアナクロニズム。ハミルトンがそんなことを悩むはずがない。彼の悩みはもっと卑賤で地上的。

 なぜ誰も自分を理解しようとしないのか。

 そもそもなぜ誰も自分を理解できないのか。

 私があまりに先に進みすぎたからだろうか。

 実際10歳で10カ国語を操ったと言われる彼の筆先から流れ出る字が一体何処の国の文字なのか、判別できる民は残念ながらこの時代にはいない。それはあまりに非可換で、あまりに非可積分で、あまりにNP完全だったのだ。それははるか昔に祖国を失い諸国を巡回する商の人のように紙の上を惑い、その軌跡をこぼれた酒と肉汁が滲ませる。

 科学史に燦然と輝く業績をいくつも挙げた若い時代はとうに過ぎ、普遍の夢という魔物に魅入られた彼は、すべての数学を四元数に還元帰着させるという大事業に一人邁進し、世界に背を向けてしまったのだ。

 彼の書く本は無駄に分厚く、難解だとして敬遠され、彼の影響がイギリスの数学の発展を阻害しているとまで言われた。

 しかし彼は自分を信じ続けていた。彼の目には、世界のすべてが確かに四元数によって支配されているのが見えたのだ。

 今もほら、原稿から目を上げれば、空中を舞う四元の精霊たちが見えるではないか。エンペドクレスが愛と憎によって結合分離を繰り返すとし、プラトンによって正12面体以外のプラトン多面体に同定され、アリストテレスによって熱と冷、湿と乾という二つの二項対立に還元された四大の元素、それらにパラケルススがホムンクルスめいた命を想像力によって与えたもの。

 精霊だって? そんな馬鹿な。

 ハミルトンは机から落ちかけた。しかしとっくに床にずり落ちていたのでできなかった。そのハミルトンの目の前で、この世界を構成する精霊たちがくるくるバレエを踊り続ける。特に土を除く三つはお互いに変転しながら絡まりあい、その姿はまるでハミルトンの作り出したi,j,kの三つの虚数単位が三次元空間と成し、互いに共役な二つの四元数でそれを挟めば、回転を表せるようだ。

 ハミルトンは目をしばたたかせながら、目の前の光景を必死に振り払おうとした。迷信深い質ではなかったが、神に加護を懇願しながら、必死に十字を切った。

 「あ、悪魔よ。悪魔よ去れ!」

 「それは悪魔ではありませんよ。かわいらしいただの「もの」、言い換えれば「ただのもの」、つまり「ものじたい」いわゆる「Ding an sich」みたいなものですよ。実際、パラケルススはこれを「Ding」と呼びましたし、極東のとある国でも精霊のことを「もの」と呼ぶらしいですしね」

 いきなり背後から話しかけられてハミルトンはもう床から転げ落ちることもできないので、仕方なしに急いで立ち上がった。椅子を蹴飛ばし脛が傷んだが、そんなことを気にしている場合でもない。

 「どうも、こんばんは」

 そこにはたっぷりとした白い髭を生やしてとんがり帽子を生やした老人が立っていた。その髭には四元の精霊が顔を出したり引っ込めたりしている。

 「お前は誰だ」

 「私は『私は誰だ』というものです。ちょっとした魔術師をしています」

 ハミルトンはがくがく震えながら、叫んだ。

 「とうとう狂ってしまったのか。あと少し、あと少しで答えが見つかりそうなのに!」

 ハミルトンは机に突っ伏して嗚咽混じりの声を上げ始めた。書きなぐりの紙に涙が落ち、すでに読めない字がぼやけていく。

 「そうです、ハミルトンさん。あなたは誰にも理解されずに死んでいくでしょう」

 魔術師の言葉にハミルトンは髪を掻きむしろうとするが、爪はハゲ頭をガリガリ削るのみ。

 「しかし、あなたの理論はゆっくりと育ち、枝葉を伸ばして馥郁たる果実をつけるでしょう」

 その言葉の意味をハミルトンは噛みしめる。

 「つまり、死後に再び評価される、ということか」

 「あまり慰めにならない、という顔をしていますね」

 「いや、そんなことはない。自分が死んだ後も結果が残り続けることほど、数学者を勇気づけることもあるまい。お前は魔術師だな。ならば、その未来への予言も真実なのだろうな」

 「真実の木に誓って本当ですよ。ほら!」

 そう言うと、魔術師の言明から木が伸び始める。それは拡散しながらすくすくと無限に伸びていった。その枝に精霊たちがたわわに実った果実のようにぶら下がる。

 「これは何だ?」

 「我々はタブローと呼んでいます。もし私の言っていることが嘘で、矛盾を含んでいるならば、この木は枯れます。そしてこの木が無限に伸びきった枝の一つが、まさに私の言っていることが本当である世界なのです」

 「よく分からんが」

 「あなたはアイルランド人じゃないですか。古のドルイドが木を信仰したことはご存知でしょう。同様に将来数学者や論理学者の多くは木を拝むようになるのですよ」

 魔術師の言葉から再び木が生え、枝同士が衝突して、枯れてしまった。

 「おや、別に矛盾したことは言わなかったはずなのに。少々健全さが足りませんでしたかな。それはともかく、あなたの四元数だって、木と見てみたらどうです?」

 「どういう意味だ」

 「つまり枝が2つずつ生えていく木と見るんです。まず2つに分かれて複素数になります。そこからさらに2つずつ別れて四元数に、もう一つ別れるとケイリーの八元数に、さらに別れると十六元数に、と無限に続いていくのです。こうしたほうが掛け算の法則も綺麗になりますよ」

 ハミルトンは相手の言っていることが掴みきれず混乱したが、すぐにすでに様々な数式が乱雑に書き込まれた紙に猛烈に式を書いていく。するとその紙から二本の木が生え、枝の先には実数が実っている。そしてその2つの木が拗じられながら絡みあい、新しい一本の木になる。いわゆるケイリー・ディクソン構成と呼ばれるものの姿だ。

 「なるほど、単なる数の列だと考えていたのが間違いだったということか」

 幾つもの木々が足され、引かれ、掛けられ、割られる様をハミルトンは感動した眼差しで見上げる。もう四元の精霊のことなど眼中になく、今見たことの含意をいつになく鮮明になった脳裡で玩味する。

 「もちろん、数の列、あなたの導入した言葉で言うと、『ベクトル』として見る視線は重要です。その視点により、空間の回転が四元数の作用として表され、機会による描画や宇宙での姿勢制御の役に立つようになったのですからね」

 魔術師が掌を差し出すと、そこに小さなこの部屋の模型が浮かび上がる。その部屋の中には、小さな魔術師とハミルトンが向かい合っている。そしてその魔術師の掌の上にはまたさらに小さな部屋の模型が浮かび上がっており……

 「簡単な宇宙際タイヒミュラー理論です」

 そう言うと魔術師はろくろを回すような手つきで、模型を様々な方向に回転させる。すると2人のいる部屋も縦横奥無尽に回転し揺さぶられる。それにより、部屋の模型がさらに揺さぶられ、回転が増幅して、ますます部屋がきりもみ回転する。精霊たちは壁にぶつかって乱反射し、まるで気体分子運動論のデモンストレーションのようなありさまになる。

 「おっとこれは一種の力学系ですね。ただしちょっと非可積分でカオスな代物ですが。影響がフィードバックされて、増幅されていきます。これもあなたの理論が嚆矢となり発展していったものです。四元数がそのまま使われるわけではありませんが、あなたの考えたスカラー、ベクトル、行列、テンソルの拡張を言語として書かれているのです。あなたによる一般化を経なければ、物理量を演算子化する量子力学はなかなか発展しなかったでしょう」

 「す、すまん。頼むから止めてくれないか」

 「おお、これは失礼」

 ハミルトンは床にへばりつきながら、目を回している。部屋が止まった後も、気分が悪そうに空嘔吐きを繰り返している。魔術師はそんな彼に構わず語り続ける。

 「複素数が平面の回転をエレガントに表すように四元数は空間の回転を鮮やかに表しますね」

 「ああ、そうだ。それこそ四元数が普遍的なものであることの、重要な証拠の一つだ」

 ハミルトンは相変わらず、青い顔をして喘いでいる。

 「素晴らしいですよね。あの偉大なオイラーによる定式化よりもずっとエレガントだ。ジンバルロックも起こさない。行列で行うよりシンプルだ。絶対値を1であるものに制限すれば、三次元超球面に群構造が定義できる。ちょうど絶対値1の複素数の集合である円周が群になるように。そして、-1を掛けた四元数が同じ回転を表すことに注意すれば、これはSO(3)の指数2の被覆になっていることが分かります。任意次元球面の単連結性により、これは普遍被覆であり、つまり量子力学で重要なスピン群になるわけです」

 「何を言っているのかよく分からんぞ」

 「ああすみません。またアナクロニズムでしたね」

 「また?」

 「しかし重要なことは、複素数を実数の行列として表現するように、四元数を複素数の行列として表現すると、この三次元超球面glomeとSU(2)に同型が成り立つことが分かることです。二次元のもともとSO(3)は実数の三次元に潜む存在で、SU(2)は複素数の二次元、実数でいったら四次元に潜む存在です。このように異なる次元を出自とした存在間に深い関係があるのは、数学の中でも決してありふれたものではありません」

 魔術師がとうとうと語る。ハミルトンはすでに理解することを諦めていた。しかし感じ続けてはいた。遠い未来の数学がそこにある。そこへと自分の数学も繋がっている。目の前の殴り書きの数式が紙の上で立ち上がり踊り出す。全ての本の頁が一斉に開き、紙の両側が同時に見える。

 「これを『偶然的な同型』と言ったりするんです。実際高次元には存在しない現象ですから。6次元まで。7,8次元にも名残のようなものがあります。実数体上のノルム多元体が一,二,四,八次元しかないことと関係があるのかもしれませんね。そういえば、エキゾチック球面が最初に現れるのも7次元ですね。その最初の構成には四元数が使われました。位相的にはユークリッド空間と同型なのに、微分同型ではないものが存在するのも四次元だけです。それも非可算個あるというからびっくりですね。いくつかの性質は4次元においてしか成り立たないことが知られています。もしかしたら将来、我々の次元がとりあえずは見た目上四次元であることの数学的理由を見つけられるかもしれません。それが四元数と関係があるとしたら、この世界の構造は幾何構造だけでなく、代数構造と深い関係があることになります。実際より広い見地から見れば、体上の四元数体というのは二次のガロア・コホモロジー、すなわちブラウアー群の位数2の元に他ならないのですから。これが体の可換拡大をコントロールしています。そう考えると、実数上の非自明な中心単純環であるという事実は、実数の拡大体が複素数しかない、すなわち複素数が代数閉体であることを現しているわけです。そのほかの離散位相でない局所コンパクトな体、すなわち局所体において四元数を考えていけば、あのガウスの珠玉、平方剰余の相互法則が示されるし、それを一般の中心多元環に拡張すれば局所類体論、すべての局所体の情報を合わせれば大域類体論になっていきます。まさに数学はインドラの網、すべてがすべてを映し出すネットワークであり、それを生意気にも網目を一回ずつ訪れながら効率的に渡っていこうなど夢のまた夢、夢のまた夢のゆめ、夢のまた夢の夢の夢の…………

 

 ハミルトンは目を覚ました。汗かそれとも食べかすかで、計算用紙が頬に張り付いている。ガンガンと割れそうに響く頭を抱えてそれをはがして見てみるが、自分でもなんだか分からない。図であろうか。ぼやけた視界では、それは森の中に精霊を引き連れた魔法使いが帰っていくように見えた。

 つい先ほどまで、まるで霧が晴れたように精神が透き通ったような気がしたのだが。今ではまた何を考えようとしても、靄がかかったようで、考えがまっすぐに進まない。

 ハミルトンはその紙をくしゃくしゃにしてくず入れに投げた。カンくず入れの端にぶつかって床に転がったその紙屑を一顧だにせず、またハミルトンは出口のない数と記号の迷路の中に沈んでいくのだった。

解説

 実数、複素数、四元数、八元数、十六元数……任意の2のn乗元数の計算ができる電卓アプリ「Infiniterion」(android対応)のために作った小説。

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