アリアドネーの幸福
見事ミノタウロスを倒したテセウスは、アリアドネ―に手渡されて迷宮の入り口扉に結び付けておいた糸玉を手繰って、今再び日の光を浴びんと脱出を図った。そこには共にクレータ島を出て、故郷に帰った暁には妻にすると約束した彼女が待っている筈であった。
しかし、そこには罠があった。罠を仕掛けたのはアリアドネ―だった。彼女は神話において散見される不思議な予見能力から、自分はクレータを逃れて一時的に訪れた島で愛する男とどうしようもなく分かれ、そしてこの男が厚顔無恥にも自分の妹と結婚することになるのを知っていたのである。
だから彼女は一計を案じ、無限にある、神話の今では知られていない別の筋道に、この愛しい男を迷い込ませることにした。
まずは扉に結び付けられた糸をはずすと、少し巻きとって、小さな糸玉とした。そして自らの服の中に隠して、へその前のところで腹に押し付けてひたすら男の帰りを待った。愚かで勇敢で、優しく浮気な、何も知らない男が、将来の希望を心に抱き、意気揚々と怪物の血に塗れて引き返してくるのを待ち続けた。
男は気付かない、まさか迷宮の出口が、新たな迷宮の入口になっているとは。男には気付き得ない、迷宮を解くための道具だと思っていた糸玉自体が、脱出不可能な迷宮であり得るとは。
男は運命の糸に導かれて、絡まった糸玉の中に迷い込む。悪夢のような一本道の迷宮だ。そこで男は不思議な洞窟の入り口に行き合う。こんなところを、行きに通っただろうか、と不思議に思うが、行きと帰りで道の見た目が変わるのはよくあることと、自らを納得させてさらに進んでしまう。
しかしそのときなのだ、女が男を、閉じ込めた糸玉ごと臍に飲み込んでしまうのは。
そこが行き止まりと気付いた時にはもう遅い。血塗れの男を腹の中に閉じ込めた女は、大きくなったお腹を抱えて走り出す、二人で静かに暮らせるこの世の果てに向かって。
これで男は逃げられない、絶対に逃しはしない。妹にも野蛮なアマゾネスにも、冥府の女王にも渡しはしない。ここに閉じ込めておけば、いつだって一緒にいられる。
愛する男の子どもを産むことはできなくなったが、代わりに愛する男を孕むことはできた。絶対に産んでなんかやるものか。これで死ぬまで一緒にいられるのだ。私が死ぬときは、あなたが栄養失調で死ぬ時だし、あなたが死ぬときは、私が腐った羊水が体中を駆け巡って死ぬ時だ。
だからそれまで私のお腹の中で、羊水に浮かぶ安逸な眠りを貪ればいい。自由以外何でも欲しい物は与えてあげるから。栄養でも愛でも、胎盤を通して与えてあげるから。