妄想になった男
彼は後悔していた。なぜこんなことになったのだろうかと考えていた。だが彼はまだこれからどんなことが起こるか知らないし、よってもっと後悔することも知らない。
毛の長い絨毯ですら消しきれない足音を立てて、あれがまた近づいてきた。喚き声、怒鳴り声、そして突然噴き出すけたたましい笑い声をともなって。何を言っているのかはほとんど分からない。分かるのは、時々立ち止まって叫ぶ、「そこにいるのは分かっているんだぞ」と、時どき発作的にドアを開けた時の勝ち誇った「そこだ、そこにいるんだろ」だけだ。しかし、何かの確信があるわけでなく、当たるを幸い、手当たり次第にドアを開けているだけらしい。その探している誰かが誰なのかも、分かっている形跡はない。彼を探しているのでもないのだろう。要は、噂は本当だったということだ。噂を信じていなかったわけではない。噂を信じたからこそここにいるのだ。だが、ここまでとは思っていなかったのだ。彼は女中部屋のクローゼットの、古びたお仕着せのあいだに身を潜ませながら、心底後悔した。
だいたい、彼はもうこの町にはいないはずだった。昨日、遅くとも今日には、汽車に飛び乗って、こんな辺鄙な場所からおさらばしているつもりだったのだ。あまり長い期間、同じ地域で稼ぎ続けるは危険だし、それにもうすぐ熱砂の季節が来る。野外では目も開けていられないし、それに砂が家に入らないように戸締りも厳重になり、仕事がしにくくなる。それなりの収穫もあったし、そろそろ引き上げて、どこかカジノのあるリゾート地で羽を伸ばしたい、と候補地の表を頭の中に作ろうとしていながらグラスを傾けていた、あの酒場でのことだった。この屋敷の話を聞いたのは。
―あの気違い屋敷知ってるだろ。
―ああ、それがどうかしたのか。
―あそこ、もう十年近くなるだろ。
―おい、何の話だよ。混ぜろよ。
―だから、気違い屋敷のじいさんの話だよ。
―何だよ、それ。詳しく話せよ。
―知らないのか、お前。あの、アタラテ山の麓にでっかい屋敷があるだろ。
―ああ、あるな。あそこって、誰か住んでるのか。俺はてっきり……
―住んでるも何も。昔はかなりはぶりが良かったらしいぜ。いろんな事業に手を出してぼろ儲けだ。ところが家主のじいさん、十年くらい前に頭のねじをどこかに落っことしたらしくて、それ以来家族は出て行くし、使用人もみんなやめちまって、今では大昔から仕えているじいやだかなんだかが、一人で身の回りを世話しているらしいんだが、やっぱ一人ではあんなでかい家の世話までは手がまわらず、家は荒れ放題ってわけだ。
―へえ、あそこ人が住んでたんだ。俺はてっきり……
―で、話は戻るけど、あのじいさんがどうしたんだ。
―そうそう、あそこ、気が狂う前は相当あくどいことまで手を出してたらしくて、奥さんが出て行くときに持っていった分を引いても相当残っているらしくて……
―それで。
―しかも、あのじいさん、おかしくなる前から相当の変人だったらしくて、銀行とかそういう類の物の一切信じなかったらしくて、あの家の中に金とかそういう物の形でためこんでるらしいんだよ。
―なんでお前がそんなこと知ってるわけ。
―そりゃお前、俺も噂を聞いただけなんだけど……
人気のない屋敷なら潜りこむのも簡単だろう。それに頭のイカれたじいさんと年老いた使用人なら見つかっても大丈夫だ。もし何か獲物があったら、見っけもん、何もなくても痛くもかゆくもない。だったらここでの仕事おさめとしても悪くはない。そのときには彼にもそう思えたのだ。
だが、今はとてもそうは思えない。とうに夜半を過ぎているのに、一向にこの家主は落ち着こうとしない。錠をこじ開ける前に灯りが点いていないことは確認した。だがこのじいさんが手に持って歩き回っている小さな燭台の光りには気がつかなかったのだ。廊下を抜き足差し足で歩いていると、廊下の曲がり角の向こうから、このじいさんのたてる騒音が聞こえてきて、思わず手近にあったドアに飛び込んだ結果がこうだ。そのときに何か物音でも聞こえたのだろうか、これだけ広い屋敷の中で、今夜の捜索区域をときにこの近辺と定めたらしく、じいさんは同じところをぐるぐる回り続け、当てずっぽうに誰かを、何かを探し続けている。このドアが開かれるのも時間の問題と言えそうだ。「今日こそ必ず見つけてやる。私の人生を台無しにしおって。今日こそ必ず、今日こそ必ず」とぶつぶつ呟きながら、足早にこの部屋の前を通り過ぎたのを確認してクローゼットから這い出し、ドアに耳をつけて、足音を追う。足音が変わる。階段を昇って行くようだ。今しかない。音を立てないようにドアを開け、身を滑り出させる。階段があるほうの反対側にいけば、窓があって外に出られるはず。足音を立てないように、だができるだけ急いで、いつ気が変わって戻ってくるかもしれない階段の方へと意識を向けながら、角を曲がって前を向くと、途端に目がくらんで立ちすくんだ。
光り、蝋燭、人。なんで。むこうにいった筈なのに、階段を昇ったはずなのに。顔の前に手をかざして光りをさえぎろうとする。目が慣れてくる。いや違う。あのじいさんよりさらに年老いた、枯れ木のような男が、わざわざ寝巻きから着替えてきたのであろうか、使用人の制服に身を包み立っている。ベルトの尻のところに差し込んでいた鞘からナイフを抜き放つ。左手で目を覆い、刃を持った右手を前に突き出し腰を低くする。いつだって殺しは最終手段だ。できることならもうやりたくない。
蝋燭の炎に下から照らされて、ぼうっと生気のない顔が浮かび上がる。目はまっすぐ彼を見ているが、まるで体を通り抜けて向こうの壁を見ているようだ。さもなければ何も見ていないよう。ナイフを閃かせても何の反応もない。なんだ、こいつも狂ってるのか。可愛そうに。どこにも存在しないものを探し続ける主人に十年近くも仕えていたら、頭の一つや二つおかしくなってもおかしくはない。
「ようし、そこから動くなよ。あんただって死ぬのはいやだよな。動かなければ死ななくてすむんだ。あんな主人への忠義のために命を投げ出す必要なんかないってもんだ」
微動だにせずに右手に燭台をもってまるで自分自身が大きな燭台に成り果てたように突っ立っているその姿から目を離さずに、彼はナイフを構えたまま老人の横を迂回する。そしてすばやくナイフを鞘に戻して、一目散に一番近くにあった窓に取りすがる。手探りで金具を探す。錆びていて、動かない。もう一度抜いたナイフの柄で何度か叩いてようやく金具が外れる。しかし窓自体に相当ガタが来ていて、なかなか体が通るまで開かない。そのとき、窓の外の景色が動いた。違う、動いたのは影だ。斜め横に伸びていた影が真正面に来て、短くなる。動いているのは窓の外のものではなく、光源。
振り上げられていたものが振り下ろされ、後頭部への鈍い衝撃に視界暗転。頭を抑えて床に転がった。しかしそれほど強く叩かれたわけではない。意識は保っている。急いで、状況を把握しようとし、取り落としたナイフに手を伸ばす。その手の甲をしっかりと手入れされた革靴の踵が踏み潰す。思わず叫び声をあげる。その声を聞いたのであろう、階段を駆け下りる音が聞こえる。砕かれた手を抱えて、上を見上げると、あいも変わらず真正面を見つめ続ける空ろな目がそこにあった。この暗さでは色が分からないその双眸の嵌め込まれた顔が、何の表情の変化も見せないまま振り返る。
「でかしたぞ、フェルナンド」
さすがに息を切らしているこの館の主人が、ローブに身を包んで立っていた。
「とうとう、とうとう見つけたぞ。もう、逃がしはしないからな」
息が上がったまま、目を血走らせてそう呟く。なんだか穏やかではない雰囲気に、彼は下手に出ることにした。
「すみません。ごめんなさい。これはちょっとした出来心なんです。職を失い生活に困っていたので、思わずこのような犯罪に手を染めようとしちまったんす。お願いでさぁ、役人に突き出すのだけはどうかご勘弁を。これでも家に帰れば家族が待っとるんです。これからは心入れ替えて、もう二度とこのようなことはしません、ですから」
平身低頭してそう嘆願する彼を一顧だにせず、主人は早足で自らの尾を追う犬のように歩き回り、大声で独り言を言っている。
「とうとう見つけたのだ。貴様のせいでどれだけの苦渋を舐めさせられたことか。十年。そう十年も私を悩ませおって。その十年のあいだに多くの土地を手放さなくてはならず、また妻と子も私から離れて行った。それもこれもすべてお前のせいだ」
何かがおかしい、と彼は思った。この男は何かを勘違いしている。
「だが、今日でそれも終わりだ。こうやって捕まえたからには、もう壁の向こうの物音や僅かな痕跡にこめられた私への愚弄で私を悩ませることもあるまい。どれ、顔を見せてみろ。何回も心の中で思い描いた顔を、確かめてやる」
床に擦り付けんばかりだった顔の下に、足が差し込まれて無理やり顔を上に向かせられる。
「ふむ、存外特徴のない顔をしておるのだな」
見上げた目が爛々と輝いている。口の端が裂けたように釣りあがっている。何かが狂っている。もちろんこの男は狂っている。だがそれだけでなく、彼自身が狂った状況に組み込まれようとしている。彼は思わず土下座を崩し、背中で這うように後ろに跳び退った。手を顔の前で振り回し、必死の抗弁。
「だ、旦那は何か勘違いなさっておられるようですが、あっしはこの屋敷に足踏み入れたのがそもそも今日初めてでして、だいたい十年前っつったら、あっしはまだ小僧っ子でして、それに生まれはこの近くでもなんでもないんでして」
すると館の主人、興味深そうに彼を見て、
「ほう、こやつ、逃げようとするぞ。フェルナンド、縛っておけ」
そういわれたフェルナンドは、いつから持っていたのか麻縄を持って、彼の後ろに回りこみ両手を後ろ手で縛り始めた。
いくら老人とはいえ二人相手にナイフもなく抵抗するのは危険と判断した彼は、とりあえずなされるがままに任せて、舌による最後の抵抗を試みる。
「わかりました。罰は受けます。どうぞ鞭を持ち寄って叩いてくだせえ。ただ、役人に突き出すのだけはどうかご勘弁を」
役人に突き出されれば、手配書と見比べられてしまう。そうすれば過去の罪状から見て軽い刑とはいかないだろう。まだその罪状が盗みだけだったら良かったのだが。
だが、相手の反応は予想外のものだった。まず目を見張り、その後身を反らせて大笑いを始めたのだ。
「はーはっはっはっは。何が可笑しゅうて、お前を官憲の手などに渡さねばならんのか。そんなことをすれば、ますます私がおかしくなったと思われるのがオチだて」
今度は彼が目を丸くする番だ。さすがにもうついていけない。この男が何を言っているのかさっぱり分からない。
足首に痛みが走る。麻縄がきつく食い込んだのだ。呆然としていたために、足まで縛られようとしていたことに気付かなかったのだ。これではもう逃げられない。打ち上げられた魚のように無力な格好で転がっている以外にやりようがない。その顔のところに館の主人がしゃがみこみ、不思議そうな顔で尋ねる。
「もしかしてお前、気付いておらんのか」
気付く。何をだ。何を気付けというんだ。
「お前は私の妄想に過ぎないという事実に」
俺がお前の妄想だって。
「まあ、仕方がないといえばそうかもしれん。私だって、最初の一二年は気付けなかった。しかしだんだんと気付いていった。何者かの気配に悩まされ始めてからもう数年経つのになんの、確実な証拠も得られない。もし実在の人物なら飯も食えば糞もする。絶対に何らかの痕跡を残すはずだ。しかし得られるのは遠くで聞こえたような気がする微かな物音、部屋の中に残る僅かな残り香、そんなようなものばかり。さすがの私もそのような存在の実在を疑い始めた。そうすれば残る候補はひとつ。私の妄想に過ぎないということだ。
「だがそれが分かってどうなるというんだ。それが妄想だとしてもそれがいるという感触は現実のものだ。探さないわけにはいかない。しかし見つからないのは分かっている。それが妄想に過ぎないことは分かっているんだから。探しても見つからないと分かっているもの、そもそも存在しないことを分かっているもの、そんなものを探す気持ちが貴様には分かるか。幾度気が狂いそうになったことか。妻子も去った。地位も名誉も失った。
「だがそれも今宵までだ。なぜなら、私はとうとうお前を捕まえたからだ。私を悩ます私の妄想め」
「おいおいちょっと待てよ」
哀れを誘うためのわざとらしい田舎者口調をかなぐり捨てて彼は叫んだ。
「だいたい、もしそうなら、俺はお前にしか見えないはずじゃねえか。だったらその男はどうなんだ。その男にも俺は見えてるじゃねえか」
すると館の主人はフェルナンドを見つめて、
「フェルナンド、お前何か見たか」
するとフェルナンド
「いえ、旦那様、わたくしは何も見ておりません。そもそも見るとか聞くとか申すものは、使用人の仕事ではございませんゆえ」
「だそうだ」
彼はますます混乱する。何なんだ、こいつらは。
「だ、だが、さっき俺を縛ったのは何なんだ。見えてもいないものを縛ることができるのか」
「わたくしはただ、旦那様のお言いつけに従ったまででございます」
「というわけだ。だからお前は私の妄想であって、私が自分で処分するほかはないというわけだ」
処分。処分とはどういう意味だ。
「これでお前とおさらばできる。この歳ではもう失われた十年を取り戻すというわけにはいかんだろう。だが、妻子を呼び戻すことならできるかもしれない。財政界でもう一暴れするくらいの気概と体力はあるつもりだ。だがそのためには、お前を完璧に始末しなければいけない。妄想というやつは、予想以上にしぶとく、ちょっとやそっとじゃ退治できずに、退治したと思ってもまた形を変えて蘇ったりするものだ」
「ちょっと待ってくれ、お前らまさか俺を殺す気なのか」
「殺すとな。可愛そうに。貴様、まだ自分が現実の人間のような気でいるのか。さっさと真実を悟ったほうが楽になれるのにの。
「そうだ、庭に埋めるというのはどうだろう。あそこなら、跡形もなく消し去って、すぐに自分が妄想を持っていたことも忘れ去ってしまえるだろう。すぐにホセを呼んで穴を掘らせよう」
なんということだ。ちょっとこそ泥に入ったくらいで、殺されてたまるものか。しかも何かを盗んだわけじゃない、鍵を抉じ開けただけで、何も盗らずに退散しようとしていたところなのに。こんな気違い屋敷に足を踏み入れたのが間違いだった。知らないうちに何もかもが手詰まりになっていたのだ。混乱しきった彼の頭の上からフェルナンドが冷静に口を出した。
「旦那様、その考え自体は大変良いアイディアかと存じ上げますが、ただ残念至極ですが、馬丁のホセはすでに……」
「そうかやつも出ていったんだったか、そうすると自分で掘るしかないのか」
「旦那様、僭越ながら申し上げさせていただきます。中庭にはいくつかの以前旦那様がご自分でお堀りになって埋められずにそのままになっている穴がございます。それをご利用になったらいかがかと愚考するものにございますが」
「穴とな。はてなんでそんなものを掘ったんだったのか」
「それは、地面の下にもしや何者かが潜んではいないか、というお考えだったように思われますが」
「そうだそうだ。あれはあの時は無駄骨だったように思われたが、世の中とは不思議なもので何もかもがつながっていて、無駄なものなど何一つないのだなぁ、フェルナンド」
「まったくその通りかと存じ上げます、旦那様」
そう言い終ると二人はまず、彼が大声で喚き散らさないように、猿轡を食ませ、胴体を何重かに縛り上げると、二人がかりで中庭に運び出した。彼も何とか身をくねらせ抵抗しようとしたが、鳩尾と首を殴りつけられ、意識のみ何とか保っている状態になっていた。二人はそのぐったりした体を穴の中に放り込んだ。その衝撃でもう一度意識を取り戻しかけた彼の耳に二人の会話が届く。
「知らないうちに、すっかり庭を荒れ果ててしまったな」
「使用人として、慙愧の念に耐えません」
「お前は良くやってくれたよ。どう礼を言えばいいのか分からんくらいにな。何か褒美をやらねばいかんな」
「そう言って頂くだけで恐悦至極でございます」
「すぐに庭師を雇おう。その他の使用人もな。財産目録の確認も急がねば。今はお前しかいないから、しばらくはお前にも働いてもらわねばいかんな。だが、すぐに楽にしてやるよ。隠居してのんびりした暮らしをさせてやるから安心しろ」
「いえ旦那様。わたくしにとって幸せとは、旦那様の近くで働かせていただくことでございます」
だがそれらの会話も次第に降り積もる土によってかき消され、音が聞こえなくなり、光りが届かなくなり、身動きができなくなり、そして呼吸ができなくなった。
2008年8月23日執筆