淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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Πάντα ῥεῖ

雪の女王、帰りは怖い

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雪の女王、帰りは怖い

 その日はなにしろ暑かった。太陽の光は、黄金色の液体かと見紛うほど濃縮されて哀れな地上の者どもの上に降り注いではたちまち異臭を放ち、脇の下にブラックホールのような黒い汗染みを作った勤め人達は、どろどろに溶けたアスファルトに膝まで沈みながら、不慣れな田植え作業に苦労しているかのように一歩一歩必死の行軍を続けていた。ようやく目的地について冷房の効いた室内に入れると思って、「ここを押して」と書かれた半自動ドアに手を伸ばした瞬間、あまりの暑さに陽炎が立ち上って蜃気楼のように見えていたビルが、本当に蜃気楼だったと気付いたとき、哀れな企業戦士たちは、絶望のあまり、いつでも自殺ができるようにと首に巻いていたネクタイを使って、自然発火した街路樹で首を吊る。通りは燃え盛る木々にたわわに実るそんな奇妙な果実で一杯だ。どんなに時間が経っても、それらは腐りもせず、軒先にぶら下がった柿のようにただ干からびていくのみ。耳を澄ませても、あの日本の夏を音で彩る風物詩である蝉の鳴き声も聞こえない。青い夏空に飛び立つ日を夢見て何年間も土の中で待ち続けた彼らは、ようやく地上に出て古い殻を破って新しい翼を広げた瞬間に干からびて、今さっき脱ぎ捨てた抜け殻と見分けがつかなくなってしまうのだ。

 進化を裏で操る宇宙と融合した無機生命体が地球と太陽の間に巨大なレンズを作ったのではないかと思うようなそんなある日、圏と環は部屋でぐだっていた。ゆだっていたと言ってもいい。煮立ってすらいたかもしれない。圏の下宿には空調などと言う文明的なものは存在せず、ついさっきまでは二人にも団扇を使って熱風を顔に吹きつける不毛な行為を続ける気力があったものの、喉が渇いたのに酒しかなくて、酒を飲んで小便をするという脱水症状まっしぐらコースをひた走った結果、今の二人には顔の両側に満遍なく畳の跡を付けるために寝返りを打つ体力すら残されていない。

 (ああ、俺はこのまま起きあがれず、床ずれして畳に肌を削られていき、最後には骨だけになって死ぬんだ)

 圏は死力を尽くして瞼を細く開けて、この世界との最後の別れをしようとする。見えるのは、すでに死んでいるのか、ピクリとも動かない環の尻だけだ。格好よくなると思って安物のジーンズを一生懸命色落ちさせた結果、股のところだけ濡れているように見える。

 (糞、こんなのが生きて最後に見る光景だなんて。糞ったれめ)

 そう心の中で毒づいた瞬間、目の前で

 ぷりっ

 と音がした。

 「てめえ、屁こきやがったな!」

 圏はベリっと音をさせて起きあがって、環を蹴飛ばそうとする。

 「そこに寝てるおめえが悪いだろ!」

 環もベリべりっと畳から顔を引きはがし、その蹴りを避ける。二人とも、頬に何か悪い皮膚病みたいな見事な模様が出来ている。

 「ファミレスいこっか。冷房聞いてるし」

 下らないことで立ちあがってしまった圏は、すぐにテンションが下がり、かといって今さら座るのも面倒くさくなって、そう切り出す。

 「でもあそこ、店長に二度と来るなって言われたじゃん?」

 「そういやそうだったな。お前がドリンクバーでホムンクルスなんか作るから」

 「俺はただ、ホットカルピス作ろうとしただけなのに……」

 「くそお、ファミレスは駄目かあ。じゃあ、図書館に行くかあ」

 「冷房効いてる?」

 「あたぼうよ! 効きまくりよ!」

 「レインボー!」

 なんだかよく分からない叫びを上げて環が立ち上がる。

 「俺が冷房一番乗りい!」

 頬の畳跡をぼりぼり掻きながら、玄関に走り出す。

 「おい待て、一番乗りは俺だぞ」

 圏もその後を急いで追う。どちらにしろお前らは一番乗りじゃないと思う。

 「くそ、邪魔をするな! この玄関一人用なんだからな!」

 「お前こそ邪魔だ。だいたいこの玄関は俺のだ!」

 二人同時にドアを通ろうとして一瞬詰まったのちはじかれるように飛び出す。そして奇声を上げて互いに相手を腕で押しのけながら、先を争って図書館に向けて下宿から走り出す。鍵掛けた?

 その五分後。

 「二度と来ないでください!」

 「お前のせいでまた追い出されたじゃねえか!」

 「俺のせいじゃねえよ!」

 「せっかくの冷房だったのに!」

 「まだ汗も乾いてねえよ!」

 「お前があんなもの召喚するからじゃねえか!」

 「だ、だって! 変な絵描いてある本あったから、線なぞって書いてあること読んだらあんなこと起こるんだぜ。誰が予想できるってんだよ!」

 「本の題名読んだら予想できるだろ!」

 「出来ねえよ! 予想できねえよ!」

 「ああ、もうよそう。ただでさえ暑くてどうにかなりそうなのに、こんなところで声張り上げてたら二倍どうにかなりそうだ」

 実際、近くにいても相手の顔がゆらゆらとかすむくらい暑い。まるでグリルの中だ。少し同じ場所に立っていると、靴の裏が溶けて、地面に張り付いて動けなくなってしまう。そうなったら、流れ出た汗が全て蒸発して塩の柱になるまでそのままだ。

 「ヤバい! このままじゃ俺たち死ぬ! もしかしたらもう死んでるのかも!」

 不安のあまり環が発狂寸前だ。

 「俺を殴ってくれ! そうしたら俺が蜃気楼じゃないかどうか分かるから!」

 「もし殴れなくても、お前が蜃気楼なのか、俺が蜃気楼なのか、二人とも蜃気楼なのか分からねえぞ。あと死んでも人は蜃気楼にならないと思うが」

 「細けえことはいいんだよ! 今俺たちに必要なのは、痛みのように激烈な生きているという証拠であぐほあっ!」

 圏の右フックが演説途中の環の顎にヒットする。

 「大丈夫か?」

 あまり心配でなさそうに圏が訊く。

 「ああ、効いたよ」

 ピクピクと地面に横たわりながら、環は小声でつぶやく。

 「おかげで思い出したぜ」

 「俺たちが暑さで今にも死にそうだってことをか?」

 「違う! 俺たちの旅の終着地! 約束の地をだよ!」

 ぴょこんと立ちあがると、その頬には赤熱したアスファルトの跡がワッフルメーカーに挟まれたみたいに痛々しく焼きつけられていた。

 

 と言うわけで二人は、途中で出会ったキャラバンの駱駝の影を借りながら目的地についた。

 「って、ここファミレスじゃん」

 「そうだよ」

 「ここには入れねえって、言ってたじゃねえか!」

 圏がそう喚こうとするのを環は、

 「チッチッチッチ」

 と指を振って止める。

 「なんだ? メトロノームの真似か? それくらい誰にだってできるぞ」

 「いい加減下らない茶々は止めろ! そうじゃなくてだな。俺がお前をここに連れてきた理由はこっちだよ」

 と、圏を建物の裏、駐車場からさらに入ったところに連れていく。そこには、従業員用の裏口がある。

 「音立てるなよ」

 環は少しドアを開けて中を覗くと、圏を指で呼ぶ。

 「12の3で走るからな。へまするなよ」

 「おい、説明が全然足りてね」

 「GO!]

 全然12の3じゃない掛け声を出して環が走り出す。仕方なく圏もその後を追う。従業員に見つからないように頭を低くして、調理場を駆け抜けると、目の前に大きな金属製のドア。ごついレバーを押して、急いでその中に入る。

 そこは天国だった。

 「冷蔵倉庫か?」

 目の前にはところ狭しと生肉や魚が積み上げられ、その間を薄い霧が流れて、奥の方はかすんでよく見えない。2人の吐く息も白い。つい先ほどまでのサウナとは雲泥の差だ。

 「そうなんだよ! 俺実は以前ここでバイトしててさ。場所覚えてたんだよ!」

 「マジで? ここでバイトしてたんなら言えよ! からかいに来たのに」

 「2日で首になったからな」

 「そっか」

 何も言えなくなる圏。

 それはともかく、Tシャツや髪をベタベタにし、肌の表面に薄く膜を作っていた汗が急速に引いていく。開ききった毛細血管がキュッと締まる心地よい感じがする。

 「しかし、今回ばかりはお前に感心したよ。あのまま外にいたら、天然のミイラになって古代エジプト展に展示されるところだった。今俺が古代エジプト展に展示されてないのも、お前のおかげだから、お前は俺の命の恩人てことになるな」

 「よせやい! ほんとのこと言われるとてれるじゃねえか!」

 頬を赤く染めて後頭部を掻く環の気持ち悪い姿から目を逸らして、圏は半そでから出た腕を軽く擦りはじめる。

 「しかし、少し寒すぎるな。いつまでもここにいるわけにはいかないよな」

 と言いながら、ドアに近づこうとする。すると、ドアの向こうから、

 「それなら倉庫にあったと思うっすよ」

 と足音と話し声が近づいてくる。従業員が冷蔵倉庫に入ってこようとしているのだ。圏はどうしていいか分からなくなって立ちつくしてしまったが、環の行動は早かった。

 「急げ! 運べ!」

 とそこら中の食材の入った箱を持ちあげて、ドアの前に積み重ねていく。

 「おい、なにを?」

 「見つかったらやべえだろ! ドアを開かなくするに決まってんじゃねえか!」

 圏にはそれが正しい解決にはとても思えなかったが、ガチガチとレバーが動かされ、ドアの向こうで

 「あれ? 開かないぞ?」

 と言う声がすると、居ても立ってもいられなくなって結局環の手伝いをし始めてしまう。自主性のなさが表れていると言えよう。

 しかし、

 「おかしいなあ。うりゃ! うおりゃ!」

 とドアの向こうで体当たりをしている感触。せっかく積み上げた生バリケードがガタガタと崩れていく。

 「やべえ! 支えきれねえ、無理だ! 隠れるぞ!」

 「ええっ!? 隠れるってどこへ?」

 それなら最初からそうすればよかったじゃんかと、圏が振り向いた時には、環はもう走り出している。

 「奥だよ! この倉庫、見た目よりかなり大きいんだ!」

 圏は一瞬躊躇する。積み上げられ床にばら撒かれた生ものを少しは片づけないと、侵入者があったとバレてしまうんではなかろうか。床に転がっているチキンの手羽先を拾おうとする。その時、

 「あ、開きそうです」

 後ろから声が聞こえ、一目散に環の後を追う圏なのであった。自主性のなさが(以下略)

 「お、お、お前。誰かが入ってくるかもしれないって考えなかったのか」

 奥へ行けばいくほど気温が下がるようで、圏は自分の肩を抱きしめてがたがた震えながら、自分の前を歩く後頭部にそう毒づいた。

 「うるせえ! 俺2日しかここで働いてねえし、最初にここ入ったときドア壊しちまって閉じこめられたあとは、二度とここに入らせて貰えなかったから、良く分からなかったんだ」

 「そりゃ正しい判断だな。お前に何も触らせないってのは」

 ぶるぶるっと圏は身を揺する。さらに温度が低くなり、今では完全に冷凍庫、いやそれ以下だ。

 「しかし、どこまでこの倉庫続いてるんだ。もうずっと歩いてる気がする。一体俺たちどれくらい歩いたんだ?」

 通路は複雑に絡み合い、まるで迷路。その道を、あてずっぽうに歩き回る環。その後について回る圏。

 「さあ、道も真っすぐじゃねえしなあ。数分じゃね?」

 「いや、数時間歩いてるような気がする」

 カチカチと圏の歯が鳴る。周りを見ると、全ての棚や段ボール箱に霜がうっすらと被さっている。それだけでなく、白鬚のように顔にも霜が付きはじめ、鼻の下からは鼻水のつららが伸びだしている。

 「やっぱお前の言うことなんか聞くんじゃなかった」

 圏の声から次第に抑揚を失われていく。倉庫の奥からは雪交じりの風がごうごうと吹きだし、二人は前屈みになりながら一歩一歩踏みしめて前へ進まないと、吹きとばされてしまいそうだ。目を開けていることすら辛い。過冷却状態の濃霧が纏いつき、体の後ろに海老の尾のような霧氷の塊りが伸びていく。ときどきそれが砕けると、金剛石の粒のようにキラキラと輝きながら、雪の妖精みたいに風に舞う。

 「これじゃ、雪だるまになっちまう。塩の柱とどっこいどっこいだ」

 圏は誰に言うともなくぶつぶつと何かを呟き続けている。

 「良く考えたら、お前の言うこと聞いて何かが良くなったことなんかなかったんだ。そもそも、世の中ってのは何かが良くなるなんてことはないんだ。熱力学第一法則と第二法則がそれを教えてくれる。第一、なにも無からは生まれない。第二、全てはありふれててつまらないものになっていく。俺たちが世界とか今とか呼んでるのは、未来に存在する全ての輝かしいものを飲み込んで、過去と言う名のそびえ立つ糞の山にしていく、でっかいでっかい消化器官のことだ」

 不気味な詠唱をずっと後ろから聞かされて、さすがの環もイライラしはじめた。

 「うるせえよ! 文句があるんだったら、あの炎天下の中突っ立って、お前もジュッ音立てて蒸発しちまえばよかったじゃねえか。さっきお前言ってたろ、俺が命の恩人だって。だったらもう少しくらい俺の言うこと聞いてくれたって……おい、圏? 圏!」

 環が振り返ってみると、圏は顔を真っ青にし、ふらふらと千鳥足を踏んでいる。顔は前方を向いていることは向いているが、焦点の定まらないその目は恐らく何も見ていない。

 「大丈夫かお前?」

 「大丈夫なわけないだろ。俺は帰る。帰るよ。どんなに暑くったって、ここよりはましだ。ここで凍死するくらいなら、外で自然発火した方が、20%増しでマシだ。だから帰るよ」

 喋っているというより、半ば開いた唇から声が漏れだしているという風にそう言うと、圏はまわれ右して来た方に歩こうとする。が、回った勢いで横の壁にぶつかりふらついて、尻もちをついてしまう。

 「あ、くそ。なんで?」

 無感動な声で圏が自分に毒づく。体に力が入らず立てないでいるようだ。その姿は環から見ても、明らかにおかしい。

 よく見ればいつの間にか体の震えが止まっている。これは危険な兆候だ。低体温症が進行すると、意識レベルが低下し、何もかもに無関心になり、体温調節機構の一種である体の震えも止まってしまうのだ。

 「大丈夫か? お前変だぞ?」

 環が掛け寄って、体を支えようとする。

 「環、お前こそなんで平気なんだ? お前、寒くねえのか?」

 「そりゃ寒いけどむぐむぐ」

 「お前……何食べてんの?」

 「これ? チョコだよ、板チョコ。ドアに通せんぼしたときの箱の中に入ってたんだ。凍ってなかったから5〜6個持ってきたんだよ。ほら、雪山で体力つけるならチョコだってゆうじゃん?」

 と、口の周りをチョコレートでベタベタにしながら、板の残りを口の中に放り込んでもぐもぐ噛む。

 「そうだ! お前にも一個やるよ……あれ? 全部食べちまったかな?」

 ポケットを裏返しにして、糸くずやおはじきや砂などを落としながら、そう気まずそうに笑う。板チョコレート5枚も食べて気持ち悪くならにのだろうか、という疑問は置いといて、意識朦朧の圏の目からは、口の周りの茶色い汚れが、邪悪な道化師の化粧のように見えたのだった。

 「あーーーーーーーっ!!」

 圏が突然叫びだす。

 「死にたくなあい! 俺はまだ死にたくなあい! まだまだやりたいことがたくさんあるんだ! 彼女作ったりとか、彼女とやったりとか、プロじゃない女とやることやったりとかしないうちに死ぬのはいやだあ!」

 「おい圏、落ち付け! 言わなくてもいいことまで言ってるぞ!」

 これは低体温症が重度化したときに起こる錯乱状態である。雪山で遭難して生き残った者なども、他の登山者が奇声を上げ続けていたのを見たと証言をしていたりする。こうなると、もうかなり危ない状況である。

 「いやだあ! いやだあ!」

 「おい! 大丈夫だって! 俺が付いてるって!」

 「余計終わりだあ!」

 落ち付かせようとする環。それでも、叫びつづけようとする圏。その時、その目が何かを捕え、驚きに見開かれる。

 「おい、環……あの、綺麗な女の人は誰だ?」

 これも、重度の低体温症の症状の一種である幻覚に他ならない。

 「あ、あんた誰?」

 環も目を丸くする。えっ、幻覚じゃないの!?

 2人の目の前に立っているのは、周囲に何匹もの大きな狼を引き連れた丈高い女性だった。頭の上に、それ自体が四角い宮殿のように見える不思議な冠をかぶり、シンプルな真っ白いドレスの長い裾を引きずってこちらに近づいてくる。

 白いのはドレスだけではない、その肌もその髪も、唇さえ白かった。切れ長の目の中からこちらを射抜いてくる瞳だけが、吸い込まれそうな黒だった。

 死のような静寂を纏うその姿は、夜のように美しく、打ち捨てられた遺跡のように謎めいていた。

 その女は歩いてくると、床に倒れて必死に半身を起そうとしている圏の目の前に身を屈めて、その顔を覗き込んだ。

 「旅人よ、難渋しているようですね」

 その後を狼達が大人しく付き従う。環はその迫力に気圧されて、思わず後ずさる。

 「私の家に来ますか? 宿と食事を提供しますよ」

 圏はその目の奥に横たわる深淵を見つめてしまう。そして、全ての光を捕え逃がさない漆黒の深淵に見つめ返されて、その瞳から輝きが消える。

 こくっ、と無言でうなずくと圏は、今まで体を起こすこともできなかったとは思えない滑らかな動作で立ちあがり、女の手をとって共に歩きだす。

 「おいおい! どこ行くんだよ! 俺も連れてけよ!」

 環はその後を追おうとする。しかし、狼の群れが歯を身きだして唸りながら、その行く手を阻む。

 「おい圏! 聞こえねえのか、圏!」

 しかし、圏にはその声はもう聞こえない。例え耳に入っていたとしても、その魂にまでは届かない。なぜなら彼の魂は、すでに雪の女王の生み出す、溶けない氷のなかに囚われてしまっているからだ。

 「どうだ? 見違えたであろう、自分の姿を」

 そこは永遠の夜と絶え間ない吹雪に閉ざされた、苔すら生えない永久凍土の氷原の真ん中に立つ、雪の女王の氷の宮殿の広間だ。その部屋の大鏡の前に、雪の女王と圏は立っている。圏の着ているのは、先ほどまでのTシャツとチノパンではなく、真っ白な礼服を着ている。まるで軍服のように、肩から房飾りが垂れ、胸元には巨大な雪の結晶のような勲章がぶら下がり、しゃらしゃらと音を立てている。

 それを着ると、それまでのだらしない格好とは月とすっぽん、立ち居振る舞いもどこか優雅に見える。圏自信もその姿にまんざらでもなさそうに、自分の姿を様々な角度から鏡に映して眺めている。自分の仕立てに雪の女王も誇らしげだ。

 「いつまでもここにいてもいいのだぞ。さすればそなたにも永遠の若さをやろう」

 大鏡の上には、凍りついた時間を表すかのように零時で静止した時計が飾られている。

 雪の女王は背筋を凍らせる妖艶な目つきで圏の顔を眺め、触れたものの体温と命を吸いとる指でその頬を愛おしそうに撫でる。

 「そうすれば自由以外なんでも、欲しいものは全てあげるわ」

 しかし二人には目に入らないのであろうか。2人がその姿を映している氷の鏡には3つ目の像が写っていることに。

 それは鏡の中から必死に鏡面を裏側から叩いている圏の姿だった。口を大きく開けて何かを叫んでいるが、その声は反対側には聞こえていない。

 すっかり男振りの上がった自分の姿にご満悦な圏は、雪の女王の前に跪くと、フリーズドライされた不気味な笑みと瞬間氷結する冷酷な視線で感謝の意を示す。

 「何もかも、我が女王の仰せのままに」

 その顔は死人のように青白い。

 「貴方様に支配していただけるなら、自由など何になるでしょうか」

 彼女にとって喜びを表す悪寒が背筋を走り抜けるのを感じた雪の女王は、口角を釣り上げて酷薄な頬笑みを形作り、相手の好意に応えるためその蝋のように白い手を彼に差し出す。

 圏がその冷たい手の甲に、血の気が失せて紫色になった唇を重ねようとした、その瞬間、

 「うおおおおおおおおおおおお!!」

 叫び声とともに、鷹にぶら下がった環が薄い氷の窓を破って飛び込んでくる。

 「圏! 助けにきたぞうわあ! 滑る! 滑る! とまらないいいいい!」

 そして鷹から飛び降りた途端に、氷の床に滑って顔面から叩きつけられ、足をジタバタさせながら、鼻血だらけの顔から二人のところへ、結構な速度で突っ込んでくる。

 「きゃああっ!」

 そのあまりに不細工で醜怪な御面相に、雪の女王も黄色い悲鳴を上げて飛び退る。

 環はそのまま、ウインタースポーツのスケルトンと同じ姿勢、ただし自分の体を橇にして、顔面からノーガードで氷の鏡に突っ込んだ。

 バリーーーーン

 盛大な音がして、鏡が砕け散る。そして、

 がちゃんがちゃんがちゃん

 次から次へと破片が環の上に落ちてくる。その殺人的な雨の中を、半透明の圏の姿がすり抜けていき、無関心に事の成行きを見守っていた自分の姿に重なる。

 「あれ、俺なにしてたんだっけ?」

 圏の瞳に光が戻り、夢から覚めたように周りをきょろきょろ見回す。着せられていた豪奢な服装は一瞬で砕けて、きらきらと輝く細かい塵になって、空気の中に溶けていく。顔にもすぐに血の気が戻ってきた。

 「なんてこと! あまりに無様で惨めな登場に気をとられて、みすみす封印を破られてしまうとは! しかし貴様、狼共に守られたこの城に、どうやって潜り込んだ?」

 頭から血を流しながら、残骸の中から這い出してきた環を上から見下ろしながら、高飛車に尋ねる。

 「ふっ。可愛い森の動物たちに協力してもらったのさ」

 「なに?」

 雪の女王が窓から外を見ると、そこでは、鹿や兎やコアラなど、可愛い森の動物たちが一致協力し、知恵と勇気を結集して狼たちに立ち向かっている。

 「お前が世界をずっと冬にしちまったんで、みんな困ってるんだ! だから、俺がお前を倒すのに協力してくれてるのさ」

 「なんと! たったの数分で、可愛い森の動物たちを仲間に引き入れたと言うのか?」

 環は相変わらずぼうっとしている圏に掛け寄って話しかける。

 「圏! 大丈夫か?」

 「環、お前ここでなにしてんの? ていうか、血出てるぞ」

 「圏。お前はこの女に術を掛けられて、心を奪われてたんだ。これを見ろ!」

 環は壁に走り寄ると、表面の曇りを手で擦ってとる。すると氷の壁の中に閉じ込められた何人もの男達の姿が露わになる。

 「これがこの女に取りつかれた男のなれの果てだ」

 「だって! だって!」

 雪の女王が地団太を踏んで怒りだした。

 「私を抱くと、どんな男もあそこがしもやけになって使い物にならなくなるんだもの!」

 これがほんとの〈しもやけ〉である。

 「そうか、お前は独り身で人肌恋しいというだけの理由で、何人もの可哀そうな男をとり殺してきたんだな。そんな女はこの俺が退治してやる。あちょおおおおおおおお!」

 環が奇声を上げながら、インチキカマキリ拳法の構えで雪の女王に襲いかかる。しかし、リーチが違いすぎて、雪の女王の前蹴りを土手っ腹にまともにくらい、自分の勢いで弾き返されてしまう。

 「ぐほおっ」

 その時、スラリとした女王の美しいおみ足が長いドレスのめくれ上がった裾から伸びて、ハイヒールの踵を環の鳩尾にめり込ませるのを圏は見逃さなかった。その細く締まった足首から、むっちりとほど良い肉置きの脹脛、そして完璧な機能美を窺わせる膕まで、一瞬で瞼の裏に刻みつけたのだった。

 「おい環」

 圏は腹を抑えて苦しむ環に掛け寄る。

 「大丈夫だ、圏。お、俺は不死身だ」

 とまるで少年マンガの主人公のようによろよろと立ちあがろうする環。しかし、圏はそれを助けようともせず、真面目な顔でこう宣言するのだった。

 「俺、ここに残るよ」

 「はあっ!? なんで?」

 反射的に聞き返す環。

 「言ってなかったかもしれないが、俺、脚の綺麗な女性を見ると、結婚したくなるんだ」

 どこまでも澄み渡った青空のような爽やかな顔でそう言い切る。

 「正気か?」

 「ああ、もちろん本気だ」

 膝が笑って立つこともままならない環を後ろに残して、圏は雪の女王に歩み寄る。

 「な、なに?」

 その妙な迫力に思わず声が裏返りそうになる雪の女王。しかし圏は彼女に逃げる暇を与えず、その白く細い手首を掴む。そして先ほどの続きと、跪いて手の甲に唇を押し当てる。

 「女王、あなたの間違いは妖術で私の心を奪おうとしたことです。そんなことをしても全くの無駄でした」

 そして、跪いたまま顔を上げて、見上げるように熱い視線を送る。

 「なぜなら、私の心は生まれた時から、運命の定めによって、あなたの物だからです」

 「おい圏」

 たまらず環が半畳を入れようとする。

 「お前、たかが脚のために人生を棒に振る気か?」

 圏は鬱陶しそうにそれに答える。

 「脚のためじゃない。俺はこの女性が好きなんだ」

 「好きなのは脚だろ」

 「違う。確かに脚は好きだが、脚を好きになれば、その人の心も性格も人生も全て好きになれるんだ!」

 「やっぱり脚じゃねえか!」

 圏は付き合ってられないと議論を切り上げると立ちあがって、なにが起こっているのか分かっていない風の雪の女王の目を正面から覗きこむ。

 「あなたが雪の女王だろうが、私には関係ない。あなたの世界がどんなに氷に覆われていようがそれも関係ない。あなたのその心の氷、私が溶かしてみせます」

 そう決意表明して彼女の細い体を力一杯抱きしめた。

 パリン、という音が彼女の胸の奥から聞こえた。それは、心の臓に刺さっていた氷の破片が砕ける音だった。

 黒体放射すらせぬ彼女の瞳が潤み、涙があふれた。それは春の訪れを知らせる雪解け水だった。

 氷原を覆っていた吹雪が止んだ。世界の果ての霧と霜の国に住む霧氷の巨人が、凍てつく息を吐き出すのを止めたからだ。

 世界に光と昼が戻った。この世の終わりをもたらす悪評高き狼が、飲み込んでいた太陽を吐きだしたからである。

 全ての物の表面を薄く覆い尽くし、大地の呼吸を止めようとしていた氷が解け、草木が見る見る天を目指し、暖かい生命の源に手を届かせようと競って伸びはじめる。完全な直線と一定の角度によって複雑かつ正確に構成されていた様々な雪の結晶の白い花に変わり、無際限に繁茂する蔦や茎の先に咲き溢れるのは無節操なほどの色使いで飾られたゆっくりと炸裂する命だ。死を待つのみだった動物たちが、自分たちもそこから目覚めるとは思っていなかった長い眠りから目覚める。そして、敵味方関係なく、風の冬、剣の冬、狼の冬の後にようやく訪れた命の春を祝って踊りまわる。

 青白い静止した光を発していた氷の城が揺れる。表面に映した鏡像すら凍りつかせる氷の壁に罅が入る。量子揺らぎさえも凍てつかせる絶対零度の寒さに息の根を止められていた水晶振動子に鼓動が戻り、時計が動き始める。凝固した時間が動き始める。

 轟音を立てて城が崩れはじめる。いくつもの巨大な氷の塊が天上から落ちてくる。女王配下の狼たちは、散り散りになって逃げていく。しかし二人は誕生したばかりの愛を確かめ合うように抱きあったまま動かない。

 「おい圏! おい! うわあああああっ!」

 環は崩れる床に巻き込まれ、氷の瓦礫の中に消えていく。

 こうして悪は滅び、今日も愛が世界は救ったのである。

 「るんるるんるん♪」

 ここは狭いながらも暖かい賃貸マンションの一室。机の上は食器が並べられ、2人分の食事の準備が少しずつ進んでいる。部屋の中は暖色系の光で満ちており、花柄の壁紙が張られた壁には、幾つもの記念写真や絵が飾られている。その部屋の中を、嬉しそうに歌を口ずさみながら、スキップでもはじめそうな足取りで食卓に料理を並べている新妻は、もちろん雪の女王である。着ているのは膝下丈のワインレッドのフレアスカートに白いセーター、piyopiyoエプロンに身を包んで、しい銀髪は邪魔にならないように後ろにまとめてポニーテールにしている。少し垂れた後れ毛の掛かる白いうなじが目にまぶしい。

 ときどき時計を確認しているのは、愛する夫の帰宅が待ち遠しいのだろう。パンダ柄のスリッパをパタパタ言わせて、テーブルのわきに置いたベビーベッドを覗きこむ。そして母親に差し出された、小さな手を指で握って軽く振りながら、優しく話しかける。

 「もうすぐ、あなたのパパかえってきますからねえ。もうすぐですよお」

 その時、玄関のドアの錠ががちゃりと音を立てる。そして、勢いよく開いて、

 「今帰ったよ、はにー!」

 圏がくるくる回りながら入ってくる。

 「おかえりなさい、だーりん!」

 ピルエットの終わりにうまく合わせて飛びつく雪の女王。それを両腕で抱きとめる圏。

 「寂しかったかい? 僕は寂しかったよ、まいしゅがーぱふ」

 「ええ、あなたがいなくて寂しかったわ、愛しいひと。でもわたしには、わたしたちの愛の結晶がいつもちかくにいるだけ、すこし救いね」

 「そうだ、べいびーの顔を見なくちゃ」

 矢も盾もたまらず、部屋の奥に急ごうとする圏。しかしスーツの裾をちょこんとつまんでそれを止める雪の女王。振りかえると、雪の女王は白磁のような頬をほんのりと赤く染め、何か言いたげに俯いている。

 「ごめんごめん。まずは君だったな、まいしゅがーきゅーぶ。もちろん君が一番だよ」

 と、抱きしめ直してその唇に深いキスをする。目を瞑ってそれを受け入れる雪の女王。唇と唇が離れたとき、その顔には朝日のような笑顔が花開いていた。

 「さあて、この世で二番目に愛する人の顔も拝むか」

 「あ、ごはんも出来てるから。今日もあなたの好物よ」

 「ほう、それは楽しみだ」

 ネクタイを外して、ジャケットを脱ぎながら、ダイニングに入っていく。そしてベビーベッドを覗きこんで、

 「また大きくなってるな。日に日に成長するよな。毎日写真撮らなきゃいけないから大変だ」

 「ね、今日、わたしのこと、ママ、って呼んだのよ。すごいでしょ」

 「ほんとうに? ちょっと早すぎないか?」

 そのほか、今日勤め先であったこと近所で聞いた話など、たわいのない会話を楽しみながら、愛のこもった食事を口に運ぶ。

 「うん、おいしいよ」

 「ほんと? いつもと違う味付けにしてみたんだけど」

 「ほんとうにおいしいよ。いやあ、料理の上手い奥さんを貰って、僕は幸せものだなあ」

 圏がしみじみと呟く。

 「昔の自分に、今こんなに幸せだと言ったって信じないだろうな。特に、あのときはこんなふうになるなんて、思いもよらなかったんだから」

 「あのときって?」

 雪の女王が少し不安そうに聞き返す。

 「あの吹雪の中で、初めて君に合ったときだよ。あのときは、ああ、自分はこの美女に氷漬けにされて死ぬんだなあ、それも一興かなあ、と思ったんだ、たしか」

 その話を聞くと、雪の女王は悲しそうに俯いて震えはじめた。

 「あれ、どうしたの?」

 圏が不思議そうにその顔を覗きこもうとする。

 「あなた、あれほど言ったことを忘れたの?」

 「へっ? なんのこと?」

 「ここで見たことを誰にも言ってはいけない。もし誰かに言ったらお前を殺すと」

 雪の女王が立ちあがると、その体の周囲から雪交じりの暴風が吹き溢れる。髪をまとめていたシュシュがはじけ飛び、長い髪が意思を持つように乱れて舞い上がった。

 「ちょちょちょ、ちょっと待って!? それおかしい! そんなこと言われてないし。だいたいそれ『雪の女王』じゃなくて、『雪女』だし! 違う話混ざってるよ!」

 圏は椅子から転び落ち、尻で後ずさりしながら必死に言い訳をする。

 「あら、そうだったかしら」

 俄に風がやみ、雪の女王も髪が白いだけの普通の新妻に戻った。

 「ふうっ、ほんとに頼むよお。肝が冷えたよ」

 腰の抜けてしまった圏は、冷蔵庫の取っ手を後ろ手に支えにして立ちあがろうとする。しかし手を掛けた拍子に、引き出しがすっぽ抜けて、また床に倒れてしまう。製氷室から氷が床に飛び散る。

 「おおっと、ごめんごめん」

 圏は床に這いつくばったまま、それを拾おうとする。雪の女王は両手を口に当てて、ひどく驚きながらそれを見ている。

 「どうしたの?」

 「あ、あれほど氷を作っている最中の製氷室は覗いてはいけないと言っておいたのに……」

 「え? そんなこと言われてたっけ?」

 「そうよ! そうなのよ! わたしは雪の女王なの。あなたが寝ているときに、氷を作っていたのはわたしなの」

 「いや、君が雪の女王なのは知ってるし。あと氷を作ってるのは電気だと思うんだけど……」

 「本当のことを知られては仕方がありません。わたしはもうここにはいられない」

 「ちょちょちょ、ちょっと待ってってば! また何か混ざってるよ。それは『鶴の恩返し』でしょ!」

 「あなたがあの製氷室を開けてしまったので、わたしが氷の中に閉じこめておいた、疫病や悲嘆や欠乏、犯罪など、ありとあらゆる災いが世の中に逃げ出してしまいました」

 「それはまた別でしょ! 混ざり過ぎてなんだか分かんなくなってきたよ! それは違う話だから、君には関係ないの!」

 「そうだったかしら?」

 「そうだよ!」

 「ならいいけど……じゃ、今のは冗談、てことにしておきましょ」

 「そうだね。それがいいね」

 「まあ、あなたったらあ、軽い冗談よぁ」

 「なんだ、冗談だったのかあ。いやあ、僕びっくりして冷や汗かいちゃったよ。この、なんというか、胸の中が冷たくなるって言うか、ゾクゾクするっていうか……スリルとサスペンスがたまんないね」

 鼓動が収まらない胸を抑えながら、どうにか圏が立ちあがる。

 「もう、驚き過ぎよ」

 雪の女王がころころと笑う。

 「ごめんごめん、はっはっはっは」

 「ほっほっほっほ」

 二人で朗らかに笑い合う。赤ん坊も一緒にきゃっきゃと笑っている。

 これで、どこにでも転がっている平和な新婚家庭の風景が帰ってくる、と思われたその瞬間、

 「圏! 危ない!」

 がちゃーーーーーーーん

 顔の前で腕をクロスしながら、窓ガラスを突き破って環が部屋に飛び込んでくる。まだ血の流れている頭にさらにガラス片が刺さって、ますます血まみれになる。

 「その女は危険だ!」

 「環、お前、生きていたのか!」

 圏が死んだと思っていた友人の登場に驚く。

 「言ったろ。俺は不死身だ!」

 環はピンピンしている自分をアッピールしようと、手をクロスさせたり広げたりする、いまいち意味の分からない動きをする。近い動きを上げるなら、UnderworldのKarl Hydeのダンスが似ていると言えば分かってもらえるだろうか。

 「貴様、可愛い森の動物たちに守られているこの家に、どうやって潜り込んだ?」

 無粋な愛の巣への闖入者を睨みつけ、雪の女王は詰問する。

 「ふっ。闇の眷族の狼たちに協力してもらったのさ」

 「なに?」

 雪の女王が窓から外を見ると、そこでは、鹿や兎やコアラなど、可愛い森の動物たちが狼たちに襲われているところだった。体勢を整えた狼たちの襲撃に、可愛い森の動物たちは、たちまち鋭い牙の餌食になっていく。

 「お前が世界を永遠の冬を終わらしちまって、みんな困ってるんだ! だから、俺がお前を悪の道に戻すのに協力してくれてるのさ」

 「なんと! たったの数分で、闇の眷族の狼たちを仲間に引き入れたと言うのか?」

 「数分?」

 圏がその言葉に引っ掛かる。

 「いや、それは単なるコピペの修正ミスで……」

 慌てて言い直そうとするが、もう遅い。

 「圏! 目を覚ませ! これもその女の妖術で見せられている幻に過ぎないんだ。これを見ろ」

 環は、棚の上に置かれた、2人が真っ白なウエディングドレスとタキシードに身を包んだ幸せそうな姿を写した写真立てを手にとって、床に思い切りぶつける。

 パリーン

 音を立てて粉々になったそれは、氷になってしまった。

 「これも!」

 環は今度は、新婚旅行の思い出のお土産である、北極熊が海豹を襲っている木彫りの像を持ちあげて、床に思い切りぶつけた。

 パリーン

 それも音を立てて粉々になり、ただの氷になってしまう。

 「そしてこれも!」

 「やめてーーっ!」

 雪の女王が悲鳴を上げる。環が持ちあげたそれは、ベビーベッドの中で手足をばたばたさせて幸せそうに指を吸っていた赤ん坊だ。

 「とりゃあ!」

 環は掛け声を上げて、それを床に思い切りぶつける。

 ごとん

 鈍い音を立てて、それは床に転がった。首が不自然な方向にねじ曲がり、ピクリとも動かない。

 「………………」

 「………………」

 「………………」

 ……………………

 「………………」

 「………………」

 「………えっ?」

 慌てて掛け寄って、それを持ちあげる環。首がぷらんぷらんと力なく垂れて、明らかに息をしていない。

 「ちょっと待って! ちょっと待ってってば! もう一回! もう一回だけ! ワンチャン! あとワンチャンあるよね!」

 パニックになりながら、もう一度頭の上に振り上げて、エビ反りジャンプで勢いを付けながら、床に叩きつける。

 「そぉい!」

 ゴキン

 やはり鈍い音がするが、今度は細い首がねじ切れて、大きな頭が中くらいの西瓜のようにごろりと転がる。その切断面を見ると、それはちゃんと氷で出来ていた。

 「な、見ろ! ほら見ろ! 俺の言った通りだろ! 俺は間違っちゃいなかった! な、そうだろ! 俺の言うことはいつだって正しいんだ」

 環は動かぬ証拠を指さして、その周りを小躍りしながら勝利の雄たけびを上げ、

 「ビビったあ! マジでビビった! 死ぬかと思ったよ」

 と、一転安堵に胸をなでおろす。そして、

 「見ただろ圏。こいつの本質は何も変わってないんだ。相変わらず怖ろしい化け物のままなんだ!」

 と雪の女王を非難する。

 「なんでこんなことを……」

 いつの間にか、元の服装に戻ってしまっている圏も困惑気味だ。2人の責めるような目に射抜かれて、雪の女王は膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って泣き崩れてしまう。

 「なんで、わたしが幸せになるのを邪魔するのよ。わたしは幸せになっちゃいけないの?」

 えぐえぐと肩を震わせながら、流れ落ち続ける涙を手のひらで擦って拭い続けるその姿は、とても世界を闇に陥れようとした雪の女王には見えなかった。

 「わたしだって! わたしだって、好きで雪の女王になんかなったわけじゃない!」

 嗚咽が少し収まると、彼女はゆっくりと回想を始める。

 「そう。あれは、わたしがまだ幼かったときのことだった……」

 「おい、なんか語りだしたぞ、この女」

 「黙って聞けよ」

 「わたしは雪のように白い肌をしたそれはそれは可愛い子どもだったの」

 「おい、こいつ、自分で可愛いとか言ってるよ」

 「黙って聞けって言ってるだろ! そうやって人の話を聞かないから、お前はいつも失敗ばかりなんだ!」

 「だからわたしは白雪姫と名づけられた」

 「話くらい聞いてるよ! あと俺が失敗ばかりとか言うなよ。失敗ばかりじゃねえよ!」

 「生まれた時から失敗ばかりじゃねえか、この馬鹿!」

 「というわけで長じてわたしは、雪の女王になったのでした」

 「馬鹿だとう! 馬鹿って言う奴が馬鹿なんだぞ!」

 「それを言うなら馬鹿って言う奴が馬鹿って言う奴が馬鹿なんだぞって、もう終わり? 早っ!」

 「ごめん、話聞いてなかったから、もう一回言ってくれない」

 「ていうかそれ、全然理由になってねえじゃねえか」

 「すまんが、話を聞いてなかった俺のために、要点を三行で説明してくれないか」

 「お前は黙ってろ! ああもう、なんだか頭痛くなってきたよ」

 「大変! 御夕飯のかき氷が悪かったのかしら?」

 書いてる作者も今初めて気付いたのだが、食卓の上に置かれていたのは、色とりどりのかき氷オンリーだった。初めての味付けと言っていたのは、大盛りのブルーハワイのことであろうか。

 「そう言えば、お腹も痛くなってきた」

 これだけのかき氷を食べれば当然である。

 「圏、これで分かっただろ。こいつと付き合えば、お前は栄養失調と下痢とアイスクリーム頭痛でいずれ死ぬ。だからその前に、俺がお前を解放してやる。こおおおおおおおっ!」

 環がナイファンチ立ちで床を踏みしめ両手をグッと握りしめると、謎の呼吸法で気合いを高めはじめる。それが最高潮に達したとき、

 「あちょおおおおおおおお!」

 と奇声を上げながら、インチキカマキリ拳法の構えで雪の女王に襲いかかった。前と同じじゃねえか。

 「ぐほおっ」

 今度もまた、女王の前蹴りを腹に喰らって悶え苦しむ環。代わり映えのしない攻撃が代わり映えのしない対処法に負けるのがそんなに悔しいのか、腹を抑えたまま、

 「なぜだあ? なぜ俺の技は通用しないんだあ?」

 としくしく涙を流しながら呻いている。その耳元へ、ぽふぽふという柔らかい足音。顔を上げると、そこには急速接近して、鼻の少し下に頭突きをかます寸前のパンダの顔があった。

 「こぽおっ」

 つま先蹴りで無理やり体を起こされ、露わになった喉首を鷲掴みにされる。爪が食い込んで息が出来なくなる。そして、その細腕のどこにそんな力が隠されているのか、というような怪力で環を高々と持ち上げた。床に足がつかなくなって環は、ジタバタと脚を振り回すが、抵抗の真似ごとにすらならない。

 「私をここまで虚仮にしておいたからには、死ぬ準備が出来ているのであろうなあ」

 雪崩の轟きのような内臓を震わす重低音でそう言う彼女の顔は、壮絶な美を湛えた怒りの形相に満ち満ちて、その身からは凄まじい冷気が溢れだし、一見甘ったるい空気に溢れた新婚家庭に見えた部屋を温かみのある光ごと一瞬で凍りつかせる。肩から腕にかけてが青白く光る氷が這い上っていき、それは次第に半透明の氷の蛇に変わる。身を捩じるたびにぴしぴしと細かい破片を飛ばしながら、冷たい鱗を首筋に押し付けながら巻きついて鋭い牙を剥く。

 「ひぐっ」

 さすがの環も、その目に恐怖を宿して身を竦める。

 「今から、純粋な冷気(アンチ・カロリック)を貴様の血管に流し込んでやろう。貴様はたちまちカチコチに凍りつき、サラサラの粉末にまで砕け散るだろうさ」

 雪の女王もまた歯と獣性を剥き出しにして、無慈悲な運命を勧告する。残忍非道に喜色満面なその顔は、相手がそうなることが嬉しくてたまらないという風だった。しかし、それでもその残忍な表情には、見とれてしまうような凄艶さがあった。

 「血液サラサラになって死ねえ!」

 氷の蛇が環の喉仏に噛みつく。そして自らの残酷な最後を覚悟して、断末魔の叫びを上げる。

 「うあああああああっ!!………あれ?」

 何も起こらなかった。いつまでたっても、環の体には暖かい血が流れ続けていた。

 「なぜだ? なぜ貴様は死なない?」

 困惑した雪の女王が問い詰める。その目は惨めな虫けらを見る目から、意味不明な虫けらを見る目にいつの間にか変わっていた。

 「ゆ、友情パワーだ!」

 苦し紛れに支離滅裂なことを言いはじめる環。

 「なにが友情パワーだ。そのような非科学的なものがあってたまるものか」

 雪の女王が言うと説得力あるなあ。

 その時、彼女は環の口の周りに相変わらずべっとりとこべりついているチョコレートに気がつく。

 「まさか」

 疑念を確かめるために相変わらずべっとりと頭にこべりついている乾きかけの流血(よく貧血にならないな)を指ですくって、一舐めする。

 「これは!?」

 驚愕のあまり環をとりおとす雪の女王。そして、

 「甘ああああああい!!」

 とまるで対決中心の料理マンガで、主人公の知り合いの店を潰そうとしたライバルの悪徳料理人が、料理対決に負けたのが納得いかずに主人公の料理を一口食べたあと、その上手さに驚嘆したときのような、オーバーリアクションで、叫ぶ。

 「なにこの甘さは? とても生き血とは思えない。チョコレート? そうかチョコレートね! チョコレートをたくさん食べて、血糖値を物凄く上げたのね。それで、血液が凍りつくのを防いだんだ」

 熊など、冬眠する動物が冬の間、凍死しないのと同じ仕組みである。科学的だなあ。

 「そんな! 友人を救うために、糖尿のリスクまで冒したというの? なんという無謀。これが友情パワーだと言うの?」

 雪の女王がショック状態にある隙に、環はケホケホ咳をしながら、四つん這いで少しでも離れようとする。その哀れな姿を圏が呼びとめる。

 「まさかあのチョコが伏線だったとは、さすがの俺も思いもしなかったよ」

 と手を差し伸べて、友人を立ちあがらせる。

 「なあ、圏。聞いてくれよ。今の見ただろ。本気で俺を殺そうとした。あんな女のなにがいいんだよ」

 「確かになあ。ちょっと考えなおしちゃったよ」

 圏は顎に手をやって悩みはじめる。

 「どんなに仲がいい夫婦だって、絶対喧嘩はするわけだろ? さすがに最初の喧嘩が一巻の終わりってのは、わやな話だよなあ」

 「うんうん。そうだろそうだろ」

 「それにさ、よく考えたら、一緒に風呂入れないんだよな。これは大きなマイナスだよなあ」

 「それについてはノーコメントだが。そんなことより、圏。俺の目を見て、俺の話を聞いてくれ」

 環が必要以上に無駄に真面目な顔をして圏の顔を見つめる。圏は正直気持ち悪かったが、仕方なくその目を見返す。そこには、雪の女王の静謐な闇とは真逆の、騒がしい、炸裂する混沌の秩序が煮えくりかえっていた。

 「俺と一緒に帰って、あの輝かしいカレッジライフルを再開しようじゃないか」

 「ライフルじゃなくて、ライフだろ」

 「うるせえ! だからまた俺と一緒に、大学行って駄弁ったり、大学行かずに駄弁ったり、その、あと、あれだ、大学行って駄弁ったり大学行かずに駄弁ったりしようぜ!」

 その時、奇跡が起こった。理屈に合わないし、物理法則や論理法則に反しているかもしれないが、この無意味で無内容な言葉が圏の胸の奥に届いて、心の琴線をピーンと鳴らしたのだ。

 「環。お前の言葉で目が覚めたよ。おはよう、環!」

 「おはよう、圏!」

 勢いよくハイファイブをしたまま、ガッチリとお互いの手を握りあい、腕相撲をするように、互いの腕力を掛けあう。

 その姿を見ながら、雪の女王が呆然と呟く。

 「なぜ。どうしてそこまで彼にこだわるの。も、もしや?」

 沸き起こった疑惑に自分で当惑して倒れそうになる雪の女王。

 「あ、あなたたち……そういう関係なの?」

 「はっ? そういう関係って?」

 「はあ? なに言ってんの。そんなわけねえじゃん」

 圏は慌てて手を離すが、環は何のことか分かっていないようだ。

 「そうなの。それではわたしには勝ち目がないわね」

 「こらこら勝手に納得するなよ。違うって言ってるだろ」

 「なんだか分からんが、分かってくれたか」

 「とっくの昔に足を洗っていたとはいえ、このわたしも中学高校とその手のカップリングに血道をあげた身。そんな二人を引き離すことはできないわ」

 「だから違うって」

 「圏。もうどうでもいいじゃん。こんな奴ほっといて帰ろうぜ」

 「だから……2人を殺してわたしも死ぬ!」

 「だから違うって言ってるのにい!」

 一瞬で部屋の中の物が何もかも砕け散った。雪の女王を中心にした寒気の爆発に吹きとばされ、圏も環も部屋から弾きとばされる。幸い落ちた先が、部屋の外に地平線まで広がっていた命の春を謳歌する花畑だったので、柔らかい土が落下のショックを受け止めてくれた。しかし、目の前に今まさに立ちあがろうとしている峻厳な氷の城を中心に、見る見る花々は凍りつき、たちまち粉々に砕けて無惨な塵へと返されていく。

 そして再び吹き荒れ始めた暴風に嬉しそうに毛を逆立てながら、狼たちが二人に詰め寄る。その口の周りは、惨殺した可愛い森の動物たちの血をたっぷり吸って真っ赤だ。

 「環、逃げるぞ! 環? あっ、もう逃げてる!」

 圏が話しかけようとすると、環はもうとっくの昔に一目散随徳寺に逃げはじめている。

 「おまえって野郎はあ!」

 圏も慌ててその後を追う。その後を、狼たちと全てに死をもたらす永久の冬と夜が肉薄する。

 二人は走りに走った。今までどんな学校の体育の授業でも、ほとんど真面目に走ったことのない二人が、今まで経験したことのないほど走った。

 冬の終わりと春の始まりを祝っていた動物たちの祭りに乱入して、踊りを乱しながら走った。この二人が通った後には、血に飢えた狼たちと命を奪う冬と夜がついてくるのだから、動物たちにはむしろ圏と環が死神に思えたであろう。

 「こうやって、動物たちの間を通っていけば、狼がそっちに襲いかかってくれて助かるぜ」

 「環、お前、本当に最低だな。それでこそ俺の親友だよ」

 圏と環が過ぎ去ったあとには、枯れ果てた草木、非業の死を遂げた動物たち、空中で凍りついてそのまま地面に落ちる虫や鳥たち、そういう荒廃した死の世界、星すら輝かぬ闇の世界が広がっていく。

 環の作戦は確実に成果を収め、他の獲物に気をとられた狼たちと二人の間はかなり大きく広がっている。しかし、二人の体力はもう限界に近く、とてもこれ以上走れない。また、残虐な殺戮者との距離が縮まろうとしている。そのとき、環が叫ぶ。

 「圏! 倉庫だ!」

 その言葉は少々不正確かもしれない。別に荒野にぽつんと倉庫が立っているわけではない。見えてきたのは、むしろどこまでも続く棚の列と言った方がよいものだ。

 「出口は近いぞ!」

 それに元気づけられて、二人は最後の死力を尽くして走る。そして足の下の地面が土からタイル張りの床に変わった瞬間、

 「うわあ!」

 「のわあ!」

 ツルンと滑った。一度温度が上がって、冷凍食品の氷が解けて床が水浸しになったあと、再び凍ってまるでスケートリンクのようになっているのだ。二人はそのままツルツルと、走ってきた勢いと背中を押す暴風に押されて滑っていく。後ろから追いすがる狼たちも、この足場に苦労しているらしく、すぐには追ってこれない。

 「もしかして、助かったのか?」

 体育座りの尻を中心にくるくる回って棚の間を滑走しながら、圏が言う。その顔には、少し余裕が出てきている。

 「まだだ、見ろ!」

 スカイダイビングするみたいに、両手両足を上げ、腹で氷の上を上滑りしながら環が前方を指さす。

 まだずっと向こうに微かにみえる壁。そこにはドアがある。そのドアの向こうまで逃げることが出来れば自分たちは助かるのだ。しかし、ドアの前には二人で積み上げた段ボールの山が、未だに待ち構えていた。このままでは、ぶつかってしまう。あれがクッションになって激突では怪我はしないであろう。しかし崩れてきた段ボールに埋もれて動けなくなったあとどうなるかは考えたくない。

 「環、どうする? おい環? お前何やってんの?」

 環は横でどこかから拾った段ボールを頭に被っていた。

 「こうしとけば自分の死ぬところを見なくてすむ!」

 そこから顔を出さずに叫ぶ環。その見事な機転に感動する圏。

 「お前、やっぱ天才だな」

 と、その段ボールに自分の顔も突っ込もうとする。

 「やめろ! 入ってくんな! この箱は一人用なんだよ!」

 「いいじゃんか、入れろよ! 減るもんじゃなし」

 「減るよ! おめえはゾンビ映画のやられ役みたいに、自分の内臓が食われるところを見ながら死ぬんだ!」

 狭い箱の中で互いの顔に爪を立てあい、ひどくみっともない喧嘩を繰り広げながら、確実にドアに接近していく二人。その時、ドアの向こうから声が聞こえる。

 「やった! やっと開いた!」

 そして段ボールの崖が崩れて、その向こうのドアが開く。そして店長とその他のバイト店員達が中に顔を入れる。そこへ、二人が飛び込んだ。

 どんがらがっちゃーん

 全員を吹き飛ばしながら、倉庫の外まで飛び出すストライク。人体がクッションになったおかげで大怪我もなしである。

 「ぎゃあっ! なんだ!?」

 「狼だあ!」

 店員たちのあげた叫び声に慌てて立ちあがった二人は、今まさに阿鼻叫喚の有り様に突入しようとしている店内をそのままに、ほうほうの態で逃げだしたのであった。

 それからのことも少し書いておこう。

 ファミリーレストランの倉庫に突然現れた凶暴な狼の群れは、当然ニュースになった。店員たちは調理器具を武器に勇敢に戦い、自分たちは怪我を負いながらもパニックになる客を見事守り抜いた。この功績により後に彼らは地元警察署から表彰を受けることになる。

 しかし、その狼たちの群れがどこから来たのかは、最後まで謎のままだった。事件の直前に倉庫の中に潜り込んで、事件発生と同時に現場から走り去った怪しい二人の人影の正体が、最も重要な手掛かりだったが、彼らの正体も明らかにならないままだ。二人が段ボールに顔を隠していたことが幸いしたのだろう。

 中には、

 「一人は大きな顔をした赤いバイクで、もう一人はそれに跨って空手のポーズをとっていた」

 なる珍証言もあったが、それは圏が来ていた「電気グルーヴが20周年を記念して電人ザボーガーに変身」をプリントしたTシャツがよほど印象に残っていたのだろう。

 狼たちは、動かない獲物には興味を示さなかったらしく、倉庫の食品は一切あらされていなかった。とはいえ、一度温度が上がって解凍されたあと、再び急速冷凍されたものは、とても使い物にはならなかった。温度調節は外からしか行えないのに、なぜ一度温度が平温近く上がったあと、また下がったのかも、解けない謎の一つだった。

 そしてこの事件は急速に人々の記憶から消えていった。

 そもそも実は次の日のトップニュースにすらなれなかったのだ。人々の耳目はむしろ、市の図書館で顔が黒山羊で三本の角と翼を生やした両性具有の化け物が、二匹の蛇の巻きついた杖を振り回して暴れ回った事件に向いていた。これをきっかけに、図書館長が公費で怪しい異端の書籍を収集していたことが問題になったのだ。市民というやつは税金が絡むと俄然熱心になる。

 と言うわけで、あのファミリーレストランは一時的に閉店したまま、二度と店を開くことはなかった。圏はその店の前に通りかかるたびに、少しだけ悄然とした顔をして通りすぎた。

 いかに幻だったとはいえ、確かにそこにあったように思えた甘い蜜月は、今では地面に落ちたひとひらの雪のように滲んでぼやけて、冬の日の白い息みたいに消えてしまっていた。しかしそれでも心の奥に引っ掛かった氷の棘は、ぽたぽたと胸の底に滴を垂らし続ける。いつかはどこかに穴が開いて、何もかもがどこかに流れていってしまう、と圏はときどき自嘲的に考えてしまうのだった。

 「元気にしてるかな、ユッキー」

 「誰? ユッキーって」

 店が潰れたあとの空きテナントはしばらく放置されたままだったが、暑さがようよう峠を越し、どうにか息をしても肺が焼かれなくてすむ程度に収まりはじめた秋口に、取り壊しが始まった。

 更地になってスッキリしてしまった区画を眺めながら、圏は思いだせない思い出にふける。あの倉庫ももちろん一緒に壊されてしまったが、あの広大な空間は一体どこへ行ってしまったのであろうか。あの壮大な城はどこへ消えてしまったのであろうか。もしかしたら、あなたが何の気なしに冷蔵庫を開けたとき、その場所へ繋がったりするかもしれない。

 (どんな形にしろ、どこかで生きていてくれればいいが)

 そう物思いにふける圏の横顔を、下から見上げながら環が話しかける。

 「分かるよ、お前の気持ち」

 圏は相手の顔を見ずに、嘯く。

 「お前に何が分かるというんだ」

 圏の心はこの風が吹く空き地のように空虚で、空き地の上に吹く風のように寂しかった。

 環はそのガランとした空間をいつになく真面目な顔で見つめながら、言う。

 「分かるよ。お前はこう思ってるんだろ」

 そして叫ぶ。

 「ここにディスカウントストア建つらしいぜ、ィヤッホー―ー!! 今からテンション上がってきたあ!!」

 叫びながら踊り出さんばかりの環を見下ろして圏はしみじみと言うのだった。

 「お前。ほんとうに馬鹿なんだな」

 (終)

 〈次回予告〉

 

 二人揃って必修単位を落としてしまった圏と環。このままでは留年してしまう。

 そこで教授に頼みこんで単位を恵んでもらおうとするが、部屋に行ってみると教授はすでに何者かに殺されていた。

 これでは単位がもらえない。苦肉の策として二人は、雑誌の電話占いに相談して、教授が生前のいくつもの非道な行いにより地獄に落ちていることを知る。

 善は急げというわけですぐさまお互いにお互いを殺させて、地獄に降りていく二人。そして無事、単位をもらうことに成功したわけだが、そこで初めて死んでしまっては現世に戻れないことに気付くお馬鹿な二人なのだった。

 どうするんだ二人とも! 圏と環はこのまま地獄行きなのか?

 次回『圏と環のみすばらしき大冒険』第3話、「単純冥界下り」。

 次回も、れっつろっくんろーる!!

 (なお、作者がどうやって地獄から帰ってくるかの理屈が思いつかなかった場合、内容を事前の予告なしに変更する場合がございますので、あらかじめご了承ください)

 2013年2月10日脱稿

解説

当時まだ日本に入ってきてなくて、こんなに早く日本に来るとは思っていなかったカートゥーン作品「Regular show」を見て、感動した勢いで書いた作品。

題名に一番苦労したが、苦労した甲斐のある題名が出来た。

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