淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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In the long run, we are all dead

まかぶる

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まかぶる

 彼女がそんなことになっているなんて全く知らなかった。

 思えば、あのときから一度も連絡しあわなかったし、どこにいて誰と会っているのかも知ろうとしなかった。自分には関係のないことだと思っていたからだ。分かれるまでには本当にいろいろなことがあって、結局二人でいることが互いのためにならないと結論が出てしまった。それでも分かれたときにはお互いの前途を祝福しあい、できるだけ悪い印象を持たないでいられるようにしあおうと話し合い、それはそれで約束通りの結果をもたらした。立つ鳥跡を濁さず。悪い印象を持たないためによい印象も賢明に封印し、あの頃の自分とはできる限りつながりを断って生きてきたのだ。だからひょんなことから、彼女が今スラム街で暮らしており、経済的にも人間関係的にも相当まずいことになっている、古いたとえを使うなら、スープの中にどっぷり浸かってしまっているということを聞いたときには、誰の話をしているのかしばらくよく分からなかった。しかし、話を聞いているうちに、なぜかものすごく懐かしいような、そして同時に急に胸の奥にしこりができたような気分になり、居ても立ってもいられなくなってしまった。あのときあれほど好きだった人が今困っている。それなら助けにいかなくてはいかないような気がしたのだ。

 自分にこんな気持ちがあったなんて、なんだか意外だった。うがった見方をするなら、あのときお互いの成功を誓い合ったくせに、全く世間的成功をつかんでいなかった私に引け目を感じていたのが、彼女の方がそれよりも社会的に下にいたので余裕が出て、人に施そうなんて了見を起こしたのかもしれない。

 とは言え、偽善だろうがなんだろうがやらないよりはやったほうがいくらかましである。私はわずかな貯金を下ろして、護身用のナイフをポケットに潜ませて貧民窟に向かった。

 一番近いサブウェイの駅に降りて、そこからは徒歩のはずだ。だが正確な道順が分からない。正確な地図すら手に入らない。仕方なく駅員に道を聞くと、当然のことながら奇異な顔をされる。あのような場所に好き好んで行くまともな人間はいない。行かなければいけなくなれば、どうあがいても行くことになるのだ。私はどうしてもそこに行かなくては行けない事情を懸命に話して、僅かな情報でも得ようとした。

 それならば、橋の老人に聞くのが一番だ。

 そう彼は教えてくれた。

 その老人はすぐに見つかった。町と町の境界になっている川を渡す橋は一つしかなく、その下に老人は奇妙な住処を作って暮らしていた。まるで地上に乗り上げた船のような形の、ダンボールや捨てられていたと思しき木材、そして大量のブルーシートから成る構築物が川から湧き出る霧の中に浮いている。実際この橋が出来るまでは唯一の川を渡る手段であった船を核として作ったらしい。そして今は橋の下で問わず語りを続けるこの老人こそ、かつてはその船の熟練した操り手、この川の唯一の渡し守であったのだ。彼は今でもこの川の向こうの街について知らぬことはないと誰もが認めている。

 しかし話してみると、昔のことばかりで、なかなか欲しい情報が出てこない。辛抱強く話を聞いていても、何かを探しにこの街に来る者は多いが見つけて帰ったものはいないだの、無事に帰りたければこの町のものを食べてはいけないだの、この町の水は全てこの川から引いていて、飲むと物忘れが激しくなるから飲んではいけないだのといった、奇矯な助言をたくさん戴くことになるばかり。とにかく老人はこの橋の存在について強い懸念を持っているらしい。いつか大変なことになるぞ、と何度も何度も繰り返す。私は老人の話を遮って、老人の手に札をねじ込む。彼はそれを不思議そうにまざまざと見つめ、昔は鳥の姿が刻印された銀貨一枚で、人々を二度と帰らぬ彼岸に運んだものだ、とつぶやいた。そしてしばらく何かがぷかぷかと浮いている川を見つめたあと、誰をお探しだ、川向こうの住人だったら誰でも知っているぞ、とようやく私の目を見て話し始めたのだった。

 橋を渡ると、すぐに街の様子が変わる。人通りも車通りも少なくなり、道端にごみが目立ち、壁にはところ狭しと独特の書体の落書きがされ、窓の多くが割れたまま放置されている。人々もスーツではなくブカブカのTシャツやスウェットに身を包み、露出した肌には何らかの集団への帰属を表すものと思しき色とりどりの花や鳥や様々な空想的動物の刺青が、真空恐怖的に彫り込まれている。平日の昼間から彼らの足取りは怪しく、視線は宙を彷徨う。蹴飛ばされたゴミ箱の横には、涎を垂らした痩せた女が、微動だにしないまま座り込んでいる。

 路地裏の入り口に屯する奇妙な髪型をした数人の若者たちが、こそこそとこちらを伺いながら、異様に顔を寄せあって何かをしゃべっている。私は目を合わせないようにしながら、早足でその場を立ち去った。

 薄どんよりと曇った空に潰されそうとしている元集合住宅とでも呼びたくなるような場所に、彼女は住んでいた。ドアをノックしてもなかなか反応がなく、もしかして留守なのだろうかと思い始めたころに、中でかすかな物音がする。やはりいるのだ、と思ってさっきよりも強くドアに拳を叩きつける。ドアが軋んで小さく開き、怯えた眼がチェーン越しに隙間から覗く。彼女だ。どんなにやつれてしまっていても、どんなに荒れた生活が肌に深い刻印を残していても、それは彼女だった。

 涙を懸命にこらえている私とは逆に、彼女には私が誰なのかなかなか分からないようだった。分かっても、どうして私がここにいるのか、何のためにいるのか、全く理解できずに両手で口を覆って、立ちすくむだけ。

 こんなところにいちゃだめだ。一緒に帰ろう。

 しかし、彼女は首を横に振るだけ。ほろほろと涙を流しながら、ふるふるとただ首を振るだけ。

 昔みたいに一緒に暮らそう。そう。ただ昔に戻るだけだよ。

 嬉し涙を堪えながら、私は言った。

 昔には戻れないよ。もう、どこにも戻れないよ。

 彼女はそう言った。自分の爪先ばかり見つめて、私の顔を決して見ようとはしなかった。

 なぜだい。なぜだめなんだい。

 私は彼女の肩を掴んで、問いかけた。できるだけ乱暴にならないように、彼女を怖がらせないように気をつけながら。

 わたしはもうここのものになってしまったの。ここの水を飲み、ここのものを食べてしまったから。だからもうここから出られない。そんなことをしたら、きっとあのひとたちはわたしを許さない。

 あのひとたちって誰のこと。怖い人たちがいるんだね。大丈夫。誰にも気付かれずに出て行けばいいよ。

 本当に怖い人たちが出てきてしまったときに、どうするのかは全く考えがなかったが、それでも不安げな様子を見せまいと、私は彼女の肩を揺らしながら、懸命に説得した。彼女は納得した様子は見せなかったが、あえて反対するつもりもないようだった。

 ふと彼女の肩が記憶にあるものより、ずっと痩せていることに気づく。まるで骨だ。指先から彼女の苦労が私の体に流れ込む。何かを考える前に、私は彼女を抱きしめていた。

 私たちは何年かぶりに愛しあった。窓の外からは怒号と銃声、そして数人が走り去る音が聞こえた。私は薄い壁の向こうの紛雑な世界をシーツに包まって追い出し、この狭いシングルベッドが二人を乗せて数学的秩序の支配する冷たい宇宙空間の真空中をどこまでも等速に直線に進んでいるように、ただ彼女を抱きしめ続けた。私たちのまわりを、ただふたりじめにされた惑星たちが重力の逆二乗則にのみ則って回る。次第に宇宙は中心を失い、相対性の中に溶け込んでいった。

 まどろみの中から起き上がり、私は出かける潮時が訪れていることに気づいた。窓の外も静まっている。

 急いでこの町を出よう。

 服を急いで来ているときに、急に喉の乾きを覚えた。私は洗面所に言って、レバーに手を伸ばす。透明な水が蛇口から流れだした。カップを探す。どれもこれも汚れている。きれいなものを探すが、見つからない。しかたがないので、ましなものを選んで、洗う。少しほてった体に、水の冷たさが染み入る。その肌に、そして骨に染み入る冷たさに何かがあった。この町に来るときに渡った川を思い出した。あの浮いていたものは何だったのだろう。あのときは気にもしなかった。あれは骨だったのではなかろうか。そしてその骨が岸辺に手を伸ばそうとしていたのを見つめていた老人は何を言ったろうか。

 何をしているの。

 彼女が突然話しかけてきた。明るい洗面所から、暗い寝室にいる裸の彼女を見ると、闇の中にぼうっと白いものが浮いているようだ。

 なんでもないよ。すぐに出かけるから服を着て、持っていくものを鞄に入れて。あんまり多くは持っていけないけど。

 私は流れる水を見つめたまま、そう答える。今度は、私が彼女を見つめられなくなってしまったようだ。視界の隅にわずかに映る彼女の姿が妙に恐ろしくて、振り返ることが出来ない。

 わかったけど、なんで水を出しっぱなしにしてるの。

 喉が、乾いてね。

 飲めばいいじゃない。

 いや、いい。

 なんで。

 いいんだ。喉は乾いてなかったんだ。

 嘘だった。今では、喉を掻きむしりたくなるほどの渇きを感じていた。なのに、水を飲むことはできなかった。死ぬほど水を求めているからこそ、水から目を話すことが出来ないほど焦がれているからこそ、恐怖もまた大きかった。

 そんなことより、早く出かけよう。

 私は懸命な努力でレバーを上げ、水を止めた。そしてタオルで汗を拭いて、ぼうっと突っ立っている彼女に目を合わせないまま、その横をすり抜けようとした。

 一つだけ約束してくれる。

 なんだい。

 この町から出るとき、絶対に後ろを振り返らないでくれる。

 なんで。

 なんでも。

 分かった。それくらいお安い御用だ。

 本当によ。約束よ。

 ああ、約束だ。

 僅かな荷物を抱えて、私たちは部屋から出た。真夜中だった。川から溢れだしたと思しき霧が濃く、鬼火のような青白い街灯の列がわずかに道を浮かび上がらせるばかり。光も音も手探りに進もうと突き出した腕もみな飲み込んでしまう濃霧の中で耳に入るのは、自分の呼吸の音、自分の心臓の音、そして薄氷を踏みわたるごと戦々恐々たる自らの歩みの音のみ。

 自分のだけ。なぜ彼女の足音は聞こえないのだろうか。

 付いてきてるよね。

 思わず振り返りそうになった私は、彼女との約束を思い出し、前を向いたまま問いかけた。

 大丈夫、ここにいるよ。

 彼女は答えた。あの懐かしい、愛おしい声で。今はか細く、頼りなげになってしまっているが、こんな太陽の光も差さない街ではなく、どこか南の温かい場所で、例えば道にの脇に棕櫚が生えているような海の近くなんかで、楽しく暮らせば以前の鳳仙花のように弾ける笑い声を取り戻してくれるはずだ。

 私は出来る限り怪しまれないように、何気ない風をよそおって歩き続けた。道は覚えている。来た道を逆に帰るだけだ。しかし昼と夜の違いもあり、行きと帰りでは全く景色の見え方も違う。あまっさえこの文目も分かぬ闇の中、まっすぐの道でも迷宮になりうる。まるで霧が建物の石や煉瓦や木を溶かして、でたらめな配置に組み直しているような気分だ。心なしか、足元の地面も蠕動するように揺らめいてはいないか。まるで牛頭の怪物の渦巻く内蔵の中を歩いているかのように。

 先ほどの角を曲がったとき、彼女はちゃんと付いてこれたろうか。よく似た交差点で間違えて曲がってはいやしないだろうか。

 付いてきてるよね。

 また振り返りそうになるのを、懸命に堪えてそう問いかける。本能が呼びかける行動を起こさないようにするには、血がにじむほど唇を噛み締め、手のひらに爪を立てなければいけなかった。

 大丈夫、ここにいるよ。

 その声に再び安心する。でもその声はなぜかどこか遠くから聞こえてくるようだった。まるで深い深い井戸の底から。そしてそれは今にも消えそうな響きを持っていた。私は安心した途端に不安になる。

 灯りだけがぼんやりともった空っぽのショウウィンドウに裸のマネキン人形が一つだけ一瞬で凍りついたような格好で立っている。まるで時間から置いてけぼりにされたかのようだ。通り過ぎざまに奥を覗くと、バラバラになったマネキン人形が山を成していた。どこからともなく音の悪いラジオが聞こえてくる。旅客機が三機もやのために着陸できなくて、飛行場の上を三十分も旋回しているとの放送だった。こういう夜は湿気で時計が狂うからと、ラジオはつづいて各家庭の注意をうながしていた。またこんな夜に時計のぜんまいをぎりぎりいっぱいまで巻くと湿気で切れやすいと、ラジオは言っていた。私は旋回している飛行機の燈が見えるかと空を見上げたが見えなかった。空はありはしない。時々すれ違う人々は顔も輪郭も失って、ただの茫洋とした影が足音も行く宛もなく彷徨うとしか見えなかった。その実体のない影が、泡沫のように視界に湧いては消える。自分のまわりの世界が全て雲散霧消してしまったかのようだ。ただじっとりとした湿気だけが体に纏い付き、肌の表面に蛞蝓が這い回ったような膜を作り、体の中にまで入り込んできては遠くでたくさんの蚯蚓がうねっているような音を立てる。

 付いてきてるよね。

 私は気づいたら三度目の問を投げかけていた。

 大丈夫、ここにいるよ。

 その声はどこから聞こえてくるのかも、もう分からなかった。遠くといえば遠く。近くといえば、まるで耳元から聞こえてくるかのようだった。まるで彼女が声だけの存在になってしまった気がした。

 もうすぐ橋だ。橋までいけばなんとかなる。橋までいけば、二人はもう自由になれる。

 私は走りださんばかりに急いでいた。今自分が歩いている道が正しいのかどうか確信が持てなかった。まるで夢の中で走っているかのようだった。足がもたついた。霧が急に粘性を高め、体に纏わりついて前進を阻んだ。額や脇や背中から滝のような汗が出て、凍えるほど寒かった。

 薄れていく意識の中、私は霧がさらに濃くなったのを感じた。とうとう道すら見えなくなった。それでもまっすぐ進む。進むしかないからだ。

 そうすることで、とうとう活路が開かれた。霧のカーテンの向こう側にうっすらと何かが見えた。それは橋だった。希望へと掛けられた小さな橋だった。

 あれだよ。あの橋を超えればもうこの町の外だ。あそこまで行けば、誰も君を追いかけてなんかこないよ。

 私は喜びのあまり後ろを振り返った。そして彼女の手をとろうと腕を伸ばした。

 そこに立っていたのは、骸骨だった。白い骨のまわりに蛆のたかった腐った肉がこべりついていた。そして目ばかりがぎょろぎょろとこちらを見つめている。私の伸ばした手は彼女の前で止まった。彼女が腕を伸ばして、私の指先に触ったとき、私は思わず腕を引っ込めた。それは冷たかった。それは死んでいた。

 それは死だった。

 言ったでしょう。わたしは帰れないって。わたしはここのものを食べたの。人から貰った薬も吸った。注射も打った。だからわたしの体はここの世界のものに入れ替わってしまった。それはもう、もとの世界とは違うの。

 彼女は舌が腐り落ちたがらんどうの口腔の奥の喉の底から、ガラガラ声で喋った。

 だから振り返るなって言ったのに。

 わらわらと影たちが彼女の後ろに集まり始めた。

 わたしはここの水を飲んで、何もかも忘れようとしていたのに。もうすぐ何もかも忘れられたのに。影になれたのに。あなただって、ここの水を飲んでくだらないあっちの世界のことなんか忘れてしまえば、影になって一緒に暮らせたのに。

 それはやはり体中の肉が腐り落ちて、蛆だらけの死者たちだった。

 あなたはわたしに恥を搔かせたの。分かるよね。

 どんどんそれは集まってきて、涎を垂らして唸りながら、私に迫ってきた。

 みんなあなたの新鮮な肉が欲しいの。わたしも欲しい。わたしを愛してるなら、くれるよね。

 私は膝が笑うのを必死に止めながら、走りだす。

 あなたのこと好きだから、あなたを食べてもいいでしょ。そうだよね。

 たくさんの死者を引き連れた彼女はすぐに追いかけてくる。邪道なことに死者たちの足は早い。足がもげ、腕がはずれ、ずたぼろになって崩れ落ちながら、それでも這ってでも進もうとする。それを踏み潰しながら、死者の群れが津波のように押し寄せてくる。

 このままではすぐに追いつかれ、四肢を引き裂かれてしまうだろう。私はポケットを漁った。碌なものが入っていない。とれたボタンと糸くず、そしてファミリーマートのレシート。心もとないが、ないよりまし。とにかくこれで逃げ切らないといけない。

 橋の入り口で私は、まずとれたボタンを投げつけた。するととれたボタンは瞬く間に巨大化し、空飛ぶ円盤群と化して夜空を覆った。そして急降下したかと思うと、死者の群れに怪光線を雨霰と降り注ぐ。たちまち彼らは火だるま、すぐさま灰と化す。これは助かるかもしれない、そう思えた。思えた途端、空飛ぶ円盤は次々墜落し、中から頭ばかり大きくて手足の長い蛸のような生物が出てきて、ゴホゴホと咳き込んでは青い血を吐いて動かなくなる。どうやら悪性の感冒にかかってバタバタと倒れているらしい。

 橋の中程で私は、次に糸くずを投げつけた。すると糸くずはあっという間に大きく膨らみ、立派なアフロヘアを頭に頂いた黒人達に変わると、ドラム、ベース、ギター、オルガン、ホーンセクション、そしてヴォーカル全ての楽器が打楽器になったような強烈なビートで、繰り返しの多い魔術的な曲を弾き出しはじめる。死者たちはその魔力に抗えず、狂ったように足を踏み鳴らしてはリズムに合わせて手を打ち鳴らし、脱皮しようとする蛇のように身をくねらせながらダイダロスが発明したと言われる迷宮的ステップを踏み、熱狂の渦を成して踊り続けるかと一瞬期待したが、全くそんなことはなく黒人音楽家たちをすぐさま食い殺して、私を追いかけ続ける。黒人音楽家たちも腹から内蔵をぶら下げながら、血に植えた歯をむき出しにして群れに合流した。

 橋の終わりで私は、最後にファミリーマートのレシートを投げつけた。するとレシートはあれよあれよという間に何畳もの広さに広がると、空飛ぶ絨毯になって、空を舞う。そして死者たちを乗せてますます加速して私に迫りだした。

 何の役にも立たないどころか、全くの逆効果ではないか。やはりポケットの中の屑などに頼るんではなかった。

 振り返れば、生きとし生けるもの全てを喰らい尽くしながら地表を蹂躙する死者たちがまるで津波のようで、あの橋の下の老人の住居であった船が、その上を揺さぶられながらも滑ってくる。あの老人は、

 そうれ見晒せ、戯けた橋など掛けた結果がこれよ。自らいた種の収穫、今受け取るがいい。

 と叫びながら、死者たちの中に櫂を差し込んで、波の上で船体を保ちながらその先へと加速しようとしている。その櫂さばきは錆びていないようだ。しかしつぎはぎの船の方がすぐに限界が来てバラバラになり、たちまち死者たちの流れに飲み込まれてしまった。

 このままでは私もすぐにああだ。

 そう焦りながら、地下鉄の階段を降りる。狭い入り口が一時的に流れを押しとどめてくれる。その間に改札口まで何とかたどり着いて、駅員のドアをガンガン叩いた。何事かと出てきた駅員の顎に猿臂を食らわせ、腰のホルスターから拳銃を奪い、階段を転げ落ちてきた死者たちの脳天に銃弾を食らわせながら、改札を乗り越える。さすがに脳髄を吹き飛ばされれば死者たちの歩みも止まるらしい。しかし数匹動きを止めたところで後から後から湧いて出てこられては何の効果もない。むしろこの銃には別の役に立ってもらうことにしよう。肉を引き裂かれて内蔵を貪り食われる駅員の叫びを背中で聞きながら、私は邪魔な客を蹴落とし蹴落としプラットフォームに急ぐ。

 運良くちょうど電車が入ってきたところだ。しかし私が行きたまま食われる客の悲鳴もすぐ背後まで迫ってきている。私は運転席に飛び込んで、銃を突きつけながら、さっさとドアを閉めて出発するんだ、と運転手を脅した。しかし、運転手には何がなんだか分からないらしく、ただ落ち着け落ち着けと喚くだけ。

 落ち着いてられるか。

 ぼろぼろに崩れて溶けて半ば流動化した死者たちが、生けるものの血を、脳漿をすすりながら、階段を雪崩のように降りてくる。手足を失っても這いずりまわって、命を求めるそのさまは、蛆虫のようでもある。

 奴らが開けっ放しの電車のドアから車両の中に入ってくるのを見て、私はとうとう引き金を引いた。運転手の額に小さな穴が開き、後頭部が柘榴の実のようにはじけ飛んだ。窓にべたりと真っ赤なアクションペインティング。

 私は殺人の余韻に浸る暇もなく、まず運転席のドアの鍵を全て閉じ、もう車両のドアを締めるのはやめて、見よう見まねで発車する。すでに中は阿鼻叫喚だ。首に歯を突き立てられた女が泣き叫びながら運転席のドアを叩く。助けて、助けて、と動く口もすぐにゴボゴボと吹き出す血の噴水と化す。血を失った生者たちは、すぐにまた立ち上がり、今度は自分たちが新しい犠牲者を選ぼうと、うつろな目をして歩き出す。自分たちもそのような生ける屍になることを拒んだ者達は、開きっぱなしのドアから高速で過ぎ去っていく地面に飛び降りて、おそらく死んでしまう。

 車内に生ける者が絶えたころ、運転席のドアの反対側に彼女が立った。

 あなたは自分が何をしたか分かっているの。

 彼女は蛆と血に塗れた姿だったが、それでもどこか美しさを秘めているようにも感じられた。

 あなたは生ける者たちの世界へ死を持ち込もうとしている。これからは誰も永遠に生きることはない。わたしは毎日千人の人間を殺してやる。それがわたしを辱めたあなたへの罰だ。

 私は前方に見えた光に急ブレーキを踏みながら、それに答える。

 ならば毎日1500人の子どもたちが生まれるようにしよう。

 死者たちは慣性に振り回され床を転がる。その好きに、私は追いすがる死者にも邪魔をする生者にも分け隔てなく鉛の玉を食らわせながら、地上への階段を駆け上がった。

 待て。待ちなさい。

 地面の底から響いてくるような彼女の恐ろしい声が、響き渡る。私は階段を登り切ると、傍らにあった巨大な岩を持ち上げて、地下鉄の駅の入り口に置いた。

 死者の国はこうして生者の国と分けられ、人間たちは死ぬようになったのである。その岩は今でも出雲国の伊賦夜坂にある。

 私は目の穢れを清めるために、川の水で目を洗った。そのときに流れた涙の中から生まれたのが、太陽の神と月の神と、そして大海原の神である。私と彼女の可愛い子どもたちだ。

 

 

 

 ※この作品は、川端康成の短編小説「片腕」をサンプリングして一部分はそのまま、一部分は改変して使っています。サンプリング元としては、新潮文庫『眠れる美女』を使用しました。

解説

「伊邪那岐の冥界下り」や「オルフェウスの冥界下り」などを現代を舞台に語りなおした作品。

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