たましい
「たましいの漁りは見ましたか」
旅先で一人食べる夕飯の察するに余りある寂しさを頼みもしないのに慮ってくれたのか、それとも単にこういう人なのか、仲居は料理を出してからもしばらく部屋から下がらず私とのぎこちない会話の試みを続けていたが、そもそも会話をしたくないから一人で旅に出た私は、春告げ魚などと雅に呼ばれることもある鮴の刺身に舌鼓を打つのに忙しくて、彼女の話は上の空。声が途切れ、話題も尽きたかと思ったとき、窓の外の潮を含んでどろりと粘り気のある暗闇を見つめながら、ぽそりと不思議なことを言い始めたので、私は上の空からどすんと引きずり落とされた。
「たましい、ですか」
ぷりぷりとてかって震える螺の貝肉を箸に挟んで宙ぶらりんにしたまま、私は聞き返した。眉根を寄せ上げて、思わず怪訝な顔つきになっていたことと思う。
「はい、そうです」
仲居はこともなげにそれだけ言うと、窓からこちらにはみ出してきそうな夜にまた目を移した。急に波の音が耳につき始め、海がざらりと肌身に感じられた。塩辛い風が仲居の結い上げられた頭からちょろりとはみ出たうなじの後れ毛を揺らす。しばらく待っても、こちらから働きかけないとこれ以上の説明が得られないことを理解した私は、取り急ぎ貝を咀嚼すると、
「いえ、見てませんが」
と、一体何の話なのか一向に分からないまま、答えた。すると、仲居は、にこっと笑いながら急にこちらを振り向き、
「それならぜひとも見るべきです」
と断言する。そういわれても、そもそも本当に私はそれを見ていないのかすらよく分からないのだが。
「沖合いで明かりをつけて、たましいをおびき寄せるんです。たましいは光によって来ますからね」
なんだか夜の蛾みたいな話だ。それだけの情報では全く得心がいかないが、おそらくこの地方でしか通じない魚の呼び名か何かではなかろうか、と見当をつけて話を聞く。
「真夜中に目が覚めて、ふと窓から海を見ると、ここからでも見えるんですよ。もちろん見えるのは、船の明かりです。でも、そんなはずはないのですが、その明かりに集まるたましいの青白い光がぼうっと靄のように見えるような気がするんです」
そう言われて私は、この山に挟まれ海に侵食されようとしているリアス式海岸の村の駅に、通過するはずだったのだが車両のトラブルで降ろされてしまう少し前、コトコト揺れる夜行列車の窓から見た、水平線に現れては消える不思議な鬼火を思い出した。
「それは、いつどこで見られるのです」
私は箸を箸置きに置いて、彼女に問いかける。彼女は、また漆黒の闇に目を移しながら答えた。
「未明に船が出ます。出発前に行けば、観光客も乗せているので、もしよろしければ今晩は起きていて、行ってらしたらいかがでしょうか」
こちらに目を合わせずに、ひたすら遠くを眺め続けるその横顔に私はまた何かを思い出しそうになりながら、結局何も思い出せずに、生返事を返してしまった。
というわけで、私はせっかくの休養をふいにして、春が回れ右してしまったような肌寒い風にコートの裾を翻弄されながら、真夜中の港で船が出るのを待っている羽目になった。仲居も着物をフェイク・ファーのコートに着替え、私の分まで漁師に乗船の交渉をしてくれていて、いくら季節外れで客がほぼ皆無で旅館が暇だとしても、なぜそこまでしてくれるのだろうかと私はその背中をいぶかしく眺めている。関係ない話だが、一度仲居と認識した人物が着物以外のものを着ていると、なぜか違和感を感じる。
良い夢が見られそうだった旅館の布団を夢見ていると仲居が戻ってきて、テレビ局の取材と一緒でも良ければ、乗せてくれるのだそうだ。何でも、村の観光を再興するために、わざわざ呼んだそうで、一風変わった漁を夕方の情報番組で紹介するのだという。私は天を仰いで春の星座を思い出しながら、いいんじゃないか、とまたも生返事。仲居は何が嬉しいのか良く分からないが、下ろした長い髪を風にもてあそばれながら笑顔。
コンクリートの地面から這い上がってくる寒さに、膝が震え始めた頃、どやどやとカメラやマイクなどの機器を抱えた集団が現れる。その中に、見たことのあるようなないような顔の、リポーターもいる。どうやら彼らを待っていたようで、その到着と同時に乗船、船は沖合いに向かい始める。
私はテレビに映らないように、できるだけ甲板の墨で、三半規管と胃液を揺さぶられながら、暗い海面を眺めていた。仲居とははぐれてしまったが、探す機もおきない。薄暗い甲板の一角が明るくライティングされ、そこから嫌でもリポーターの声が耳に入ってくる。
「……この漁では、今年生まれたばかりのたましいを光を使っておびき寄せて、一気に網で掬ってとってしまうのです。臨死体験の報告などを読んだり聞いたことのある人はご存知だと思いますけど、たましいというものは、光のほうに引き寄せられる性質があるのです。これを学術用語で走光性といいます」
おそらく今頃画面の下部に字幕スーパーが表示されているのだろう。
「……たましいは水揚げされてしまうと、すぐに萎んでしまうので、なかなか出荷されません。なので今までは、地元の人たちにしか知られていなかったのですね。でもこれからは、たくさんの人たちにこの港を訪れて、この珍味を味わって欲しいと、地元の人たちは考えているのです」
眠いからなのか、だんだんと現実感が消失し、体が浮遊しはじめる。空気が水飴のように粘っこくなって、歩みの遅くなった音達が塊になって耳の中で混ざり合う。リポーターの甲高い声が遠ざかり、どこから聞こえてくるのか分からない、方言交じりの低い男の声が波間の泡のようにぽつりぽつりと意識の表面ではじける。
「……今年はなしてこんな仰山たましいがあがるんだろ……」
「……去年は大水がたくさん出たから……」
「……隣村でも鉄砲水で家がたんと流された……」
「……おととしの津波で沖に流されたのも、まだ残ってて今年になって帰ってきたのかも……」
私は、断片的な言葉をあえて理解しようとせず、船の明かりを反射して、ゆらゆらと揺らめく波間をただぼうっと見ていた。そのとき、海の奥で何かが光った。最初は天の星が反射したのかと思った。しかしそんなわけはない。まるで蛍のように、一定周期でぽうっと光っては消え、消えては光ってを続けながら、だんだんと深淵から浮き上がってくる。
「さあ、そろそろ漁の始まりです」
リポーターの声に合わせて、眩い石英水銀灯が点る。近くから見れば目を射抜く光だが、燦然とした明りが茫洋とした大海のど真ん中にぽつんと浮かぶ様子は、むしろこの茫漠としたどこまでも続く闇を際立たせる。今まで水面ばかり眺めていた目を急に上げれば、墨のような黒い水面が、視界の果てで立ち上がって、頭上まで覆い、背後から手を伸ばして私をぎゅっと掴もうとしている。幾つもの明かりとリポーターの声がそれをどうにか押しとどめている。私は寒気がしてコートの襟を掻き合わせる。
「見てください。たくさん。たくさん上ってきました」
先ほどほのかに見えた光が無数に、海のそこから浮かび上がってくる。海面は、緑がかったような、青みがかったような光で、ぎらぎらと輝く。
「すごいですねえ。ほら、これを逃さないように、漁師の人たちが網で掬うのです」
先ほどまで暗い声でひそひそ話をしていた男たちが一転、掛け声以外は一切無駄口を叩かずに、海に網を投げては、細い糸を手袋に食い込ませて引っ張りあげていく。弾け飛ぶ汗の飛沫が、水銀灯の光を反射する。
引き上げられたそのゆらゆら揺らめく光は、一度船上の水槽にあけられる。近くで見ても、正体はつかめない。握りこぶしくらいの大きさの、まるで海月のように輪郭の定かならぬものが、明滅しながら水の中を明滅しながらしゅるしゅると遊泳している。目も口も鰓も鰭もなく、海鼠のようにどこが頭でどこが尾で、どこが胴やら判然としないそれは、どう見たって魚ではない。その中の一部は、息継ぎをするように水面まで出てくると、そのまま空中へと浮かびあがり、火の粉のように、星空に向けて舞い上がっていこうとしている。
「見てください。人魂などでよく知られるように、たましいは光ながら、宙に浮かぶこともあるのです。これが古い伝承にある鬼火や狐火やプラズマなどの正体なのですね」
私の目の前でその名状しがたきものは、半透明の流線型のフォルムの中に陰極線のような光をたゆたわせて、宙返りした。しかし、私が目を奪われる暇もあらばこそ、ゴム手袋をはめた男の手が伸びてきて、それを捕まえてしまう。身を捩って逃げようとするぬらぬらしたそれを懸命に取り押さえながら、リポーターのほうに差し出す。
「少し触ってみましょう」
と、リポーターが恐る恐る手を伸ばす。そして指先で少し撫でると、
「つめたあい」
と黄色い声を上げて手を引っ込める。
「でも、思ったより表面は硬いんですね。少し弾力がある殻、という感じといいますか」
周りが急にガヤガヤしはじめた。外洋の波で船が揺れる中、油の入った中華鍋を火にかけて、調理の準備をしている。
「これをどうやって食べるのかといいますと、まずは虚揚にして見ましょう」
リポーターの声に合わせて、透き通った身にまぶし粉をつけて、油に投入していく。じゅわっと音がして、香ばしい臭いが一気に広がる。そこ以外の場所でも、同じように調理が始まって、手のあいている漁師たちが、人だかりを作っている。
狐色に揚げあがったそれを油から引き上げてみると、少し小さくなったように見える。そういう姿になってしまうと、普通の魚とほとんど見分けがつかない。しかしよくよく見れば、未だに衣を透かしてそれは燐光を発しているのが分かる。
「それではいただいてみましょう」
とリポーターが箸で挟もうとしたが、とっかかりがないので結局突き箸をして、口に運んで、まだ熱いのだろう、噛みとった肉を前歯に挟んで熱を逃がしながら、はふはふとどうにか噛んでいく。そして飲み込むと、はっ、とまるで何かに唐突に気付いたかのようなわざとらしい所作をして、
「おいしいです。その……外の殻の部分はからっと上がっていて、中はとろっとしていて、とってもおいしいです。まるで卵のようなまろやかさに、海の自然な塩味が効いてて、しつこくない、自然なおいしさを出しています」
そういうと、虚揚の残りを口に運び、手で口を押さえて、やむやむと口を動かしながら、喋ろうとする。
「魚とは全然違う食感です。烏賊とも違うし……ちょっと似ているものが思いつきません」
カメラの前以外の場所でも、だんだんとお祭り騒ぎの態をなし始める。
漁師たちは交代交代で網を引き上げ、次々とたましいを水槽にあけていく。たましいたちは、宙に身を躍り上がらせて、天に向かって昇っていこうとする。それを余さずごつい手が引っつかんでいき、今度は衣を付けられ天麩羅にされていく。
そのとき、突然私は後ろから腕をとられて、無理やり引っ張りこまれる。
「おうあんちゃん、一人で黄昏てねえで、一緒に食おうぜ」
と半ば強制的に取り皿と箸を持たされて、まだ油があわ立っている揚げたての天麩羅が次々と皿に積み上げられていく。このままでは崩れてしまうので、仕方なく山盛りの天辺にあるのを一つ口にしてみる。
ばりばりと音を立てて、まだ熱い衣が砕けると、中からじわっと熱い滋味があふれ出る。舌を火傷しそうなほど熱く、涙目になりながらほっほと口を半開きにして外気を入れながら嚥下する。舌を冷やす暇もなくかすかに光を発しているスープが中からどろリと流れ落ちそうになるので、気味の悪さも忘れて私は本能的にもう一口食らいついてしまう。ほんの少し磯の匂いのする甘みが口いっぱいに広がる。飲み込むときにわずかに感じる苦味も、いかにも海の味という感じだ。油も良いものを使っているようで、食欲が沸くし、たくさん食べても胸が悪くならない。
私は次第に夢中になって食べた。先ほどまで軽い船酔いに悩まされていたとは自分でも信じられない。食べるのに集中するにつれ、非現実感が薄れていったのは、私が非現実に没入して、埋没してしまったからであろうか。先ほど私を引きずりこんだのと同じ手か別の手かが、今度は逆に私を集団から引きずりだし、いきなり手に小さなコップを手渡した。中には透明な液体がゆらゆらと光を反射している。
「ようにいちゃん、たましい食べるときは、これを飲むのが昔っからの決まりなんだ。ただし火気厳禁だから気いつけな」
鼻を近づけると、刺すような刺激臭、思わず顔を背けるが、俄かに周りから、
「ほれ、ぐいっとぐいっと」
「さあさ、男見せえや」
「たましい飲み干せや」
「さっさと飲まねえと、蒸発して風になっちまうぜ」
と囃されて、南無三とばかりに目を瞑って喉に流し込む。
味はしなかった。ただ痛み、そして熱さ。喉が燃え始め、食道が蒸発して外に出て行ってしまいそうだった。頭がくらくらして、自分が揺れているのか船が揺れているのか分からなくなる。気付いたらまたたましいを食べているが、自分がどれくらい食べたか思い出せない。周りの人々も景色も踊り始め、まるで水銀灯が祭りの提灯のように見える。
「さて、それでは、このたましいの一番おいしい食べ方を紹介しましょう」
どこでリポーターが話しているのか分からない。口の中に幾つのたましいが入っているのか分からない。
「それはなんと言っても、踊り食いです」
もう、仕事をしている漁師はおらず、皆たましいに食らいつき酒を飲んで、肩を組んで陽気に歌い始めている。その人だかりの中に、あの仲居の姿を見えた。
「少し説明させていただくと、この外側にある殻は、『魄』と呼ばれるもので、世界や生命を支える『気』の地上的部分、陰陽道における陰に属する部分です。そして中で輝くこの光こそが『魂』、『気』の陽に属する天上的部分なのです」
仲居も一心不乱にたましいを食らっていた。その姿は妙に迫真的で、どこか浅ましい感じすらした。
「これは神智学で言う、『エーテル体』と『アストラル体』の区別に対応しています」
まるで、何かに追われているような。いやむしろ、失った何かを必死に取り替えそうとして血眼になっているような。
「虚揚や天麩羅にするときには、この外側の『魄』が歯ごたえを与えていて、とてもおいしいのですが、やはりたましいの醍醐味はこの中にある『魂』です。これは、生物が死ぬとともに、はるかな天に帰っていこうとするのですが、踊り食いではそれをつるりと生のまま食べてしまおうというのです。見ていてください」
と、言うと、漁師の男が、たましいの身に包丁の刃をするりと入れて、切り開く。中からぽうっと有機交流電灯の青い光が滑り出て、夜空に向かってするすると昇っていこうとする。それをリポーターがすばやく器用に箸で捕まえた。
「それでは食べてみます」
と、せわしく明滅する実体のない炎のようなものに、用意された山葵醤油をちょんと軽くつけてすする。
「うん、これは……なんとも名状しがたき味がします」
周りでは皆、水槽に身を乗り出して、昇天しようとするたましいを捕まえては、ナイフを突き刺して、中から生命の炎をつまみ出して、山葵醤油や生姜醤油につけて飲み込んでいく。仲居も両手を伸ばして、次々にたましいを捕まえては、命の光をすすり上げる。その姿は、もう鬼気迫るものだ。
「風の味がします。息の味がします。『生きる』が『息』であるように、中国語の『気』もラテン語の『spiritus』もギリシャ語の『psyche』や『pneuma』もヘブライ語の『ruah』もサンスクリット語の『prana』も、みんな生命の根源を意味する言葉は風や息を意味する言葉から来ています。だから、この味も、生命の味なので、風や息の味というべきなんです」
私は、夜の闇を見つめる彼女の姿が何を思い出させるのか、ようやく思い出した。電車の窓から、沖合いに浮かぶ鬼火を眺める自分を思い出していたのだ。私が、胸にぽっかり空いた穴の陰圧に苛まれて、夜の闇を目から胸いっぱい吸い込もうとしていたように、彼女も、それが何かは私には分かりようがないが、たましいの欠乏に苦しめられていたのだ。
今、人間性をかなぐり捨てて、獣のようにたましいをむさぼる彼女の姿には、異様な充実感があった。私もそれが欲しいと心底思えるような。
彼女と目が合った。彼女は汚れた唇を舌で舐めとりながら、私に妖艶に笑いかけた。私も自然にそれに答える。
私もたましいを食らおう。食らって食らって食らい尽くそう。そう思って、わらわらと縺れ合いながら、よこしまな生者の手からどうにか逃れて、故郷である星空に帰ろうとしているたましいに手を伸ばしたとき、私は水にぬれた甲板に足を滑らせて、水槽の中にまっさかさまに落ちていったのだった。
頭上をいくつものおぼろげな光が群れているのを感じながら、冷たい水のなか私は目を閉じて意識を失っていった。
目を覚ますと、そこは昨日の旅館の布団の中。もう日も高く上がって、汗ばみそうなほどの春の陽気だ。窓から海を見ると、いかにも寂れた港町という風情で、格別変わったことなど起こりそうにない。
私は、身支度をしながら、全てが黒甜郷裡の幻であったかのような感じを受けていた。
チェックアウトするときに、あの仲居とすれ違った。私は思わず声を掛けようとしたが、その顔を見て戸惑っているうちに、早足に通り過ぎてしまい、そのタイミングを逃してしまう。その表情からは、昨日の陰りが消え、一心不乱に仕事に打ち込んでいる様が垣間見えた。ただ単に、昼と夜とで印象が変わっただけかもしれないが、私に昨晩のことを聞く気をそがせるのには十分だった。
私は何も言わず、何も聞かずに、この漁港を立ち去ることにした。
その日、当初の目的地のホテルに一日遅れでようやく到着したとき、何の気ななしにテレビをつけると、夕方の情報番組であの小さな漁港の紹介をしていた。
しかし、それはただの蛍烏賊漁でしかなかった。私は、深く考えるのをやめ、ただテレビを消して、ベッドに横になって体を休めた。