胡蝶の夢の教訓
かつて荘周は夢の中で胡蝶となった。実に胡蝶であった。
何の憂いもなく、心行くまで風に乗って舞い飛んだ。荘周であることは、全く忘れきっていた。
しかし、目が覚めると、なんということか、彼は荘周であったのだ。
そこに謎が残る。存在の謎だ。
荘周が夢で胡蝶になったのであろうか。それとも胡蝶が夢で荘周になったのであろうか。
この問いに答えを出すことは出来ない。そこで、ここからせめてもの教訓を引き出したい。
彼がどうにかこうにか荘周でありえたのは、彼が胡蝶という、ぎりぎり夢見ることの出来る存在者を夢見たからである。 だからこそ、胡蝶の夢である彼は存在できる。
我々が何かを夢を見るように、我々自身もまた何かに夢見られた存在なのだ。 我々は声であると同時に、木魂である。我々は光源であると同時に、影である。我々は鏡であると同時に鏡像であり、足であると同時に足跡である。
もし彼が、夢を見ることの出来ない存在を夢見てしまえば、存在の大いなる鎖はそこで尽き、結果として、彼の危うい存在の足場も脆くも崩れてしまう。
夢を見ることの出来る存在を夢見ること。これが我々存在の鎖の輪の一つに与えられた義務であり、存在の連なりに参加するための条件なのだ。