淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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Long Live The New Flesh

私の振り

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私の振り

 最近私が学んだのは、警察に私の振りをしている誰かがいると言っても信じてもらえないことだ。

 彼奴は私そっくりの顔をして私そっくりの行動をするから、誰も私と彼奴の見分けを付けることはできない。そう誰も。これを読んでいるあなた方だってそうだ。多くの人が私と彼奴を取り違えるだろう。彼奴はそれを利用して私に罪をなすりつける。

 そもそもことは私が夜散歩しているときにあった。私は彼奴の気配を感じていた。彼奴は私の視界の端のわずかに外側に潜伏し、私の後をつけている。そんなときいつも私は彼奴のしっぽを捕まえてやろうと、いつもの散歩コースを変えるなど、彼奴の予想しない行動をとることによりどうにか先手をとろうと画策するのだが、結局いつも徒労に終わるのだった。

 あの日も私は、彼奴の存在を鋭敏に察知し、いつもの道を歩くと見せかけて、下駄をカラカラ言わせて急に今まで通ったことのない狭い小道に走り込んでいった。後ろから、彼奴が必死に私を追いかけてくるのが分かる。私は考えた。どこか適当なところに隠れて彼奴が追い付いてくるのを待とう。そして不意打ちを喰らわして、彼奴の正体を見極めてやろう、今まで私になすりつけてきた罪の償いをとらせてやろう、と。今から考えてみると、私はその時すでに彼奴の罠にはまっていたのだ。しかしその時はまだ、私は跳ね上がる息をどうにか落ち着かせようとしながら、狭い小道から小川沿いの道に出たはなの、今時分は丸裸の桜の樹の影に身を顰めながら、どうこれまでの鬱憤を晴らしてやろうかと思いを巡らすのに忙しかったのだ。

 ところが、呼吸が収まって、体を芯から冷やす気持ちの悪い汗が乾いた後も、彼奴はなかなか現れない。先ほど走っている時には確かに下駄履きの跫音が背後に聞こえたはずなのに。もしかしてあれは私の跫音の反響に過ぎなかったのであろうか。いや、そんなことがあろうはずはない。ではもしや、彼奴は私の待ち伏せに気付いたかなにかして、またおめおめと逃げおおせたとでも言うのであろうか。

 夜を白々と照らす月明かりの中、脳裏をよぎる様々な想念に私が疑心暗鬼となっているその時、小川の向こうに人影が見えた。私は目を凝らした。それはどうやら女性のようだった。冷たい夜風にセミロングの髪をもてあそばされながら、ブラウンのダウンジャケットを着た体を寒そうに縮こめて足早に歩いている。顔はよく見えないが、デニムのショートパンツから伸びる黒いタイツに包まれた脚が若い女性であることを知らせている。

 私は、今家に帰るところなんだろうか、こんな夜中に女性の一人歩きなんてなんと不用心な、とだけ思ってもう一度意識を彼奴が出てくるはずの小道に持って行こうとした。しかし、そんな私の目に映ったのは、女性の歩いて行く方向から向かい合って歩いてくる、彼奴の姿だった。

 私は驚いて目を見張った。思わず叫びそうになった。しかし、まるで空気が急に粘っこくなったようで、喉をうまくとって行かず、思った通りに声が出なかった。女性はなんにも気付かず歩いて行く。その進行方向を、彼奴が遮った。女性はそのときになって初めて彼奴の存在に気付いたようで、俯きがちに歩いていたその顔を上げ、驚きに目を丸くした。暗くて表情の細かいところまでは見えなかったが、夜を白と黒に切り分ける月光を星屑のように散らばしたその黒い瞳が綺麗だったことを、なぜかはっきりと覚えている。口紅を薄く引いた唇が声を上げる前に、彼奴はマフラーを巻いた首に両手を掛けて、力いっぱい締めあげはじめた。

 私は止めさせるために急いで小川の向こうにかけ付けようとした。しかし左右を見回しても、どこにも橋は見当たらない。川はそれほど深くはなさそうだが、水面自体がかなり下の方にあり、飛び降りるのはためらわれる。そんなことをしているうちに、私の心は折れ、ただ黙って向こう側で行われる惨劇の進展を眺めるしかなくなってしまった。

 歩いているときには前かがみで見えなかったダウンジャケットの下に着ているのは白いセーターか、とまず思った。ジタバタともがいている脚にはかなり大きめのブーツを穿いており、ファッション的には大学生であろうか。首にはチェックのマフラーを巻いている。私はそのマフラーのせいで、肝心の締められている首が見えないのが不満であったが、彼奴も分かったもので、マフラーの中に手を潜り込ませて、どうにか直接喉首を締めるかたちにしてくれた。女が最後の抵抗にもがくことで、彼奴の指が少しずれる。すると、女の白い首に赤黒い指の跡がまざまざと残っているのが見えて、私は不覚にも興奮してしまった。私は血がにじむほど指を強く握りしめ、下着の中に生温かい精を放つ。

 全てが終わったとき、私の目の前には動かなくなった、まだ温かい女の肉体が地面に転がっていた。女のすでに何も見ていない見開かれた目は、ビー玉のように月の光を閉じ込めてもう二度と逃がさない。私は驚いて、慌てて小川の向こう側を見た。さっきまで、春を待つ桜の樹の影に隠れていた彼奴が、小道を走り去っていくのを私は感じた。私は自分がまんまと罠に掛かったことに気付いた。

 彼奴は、私を先回りして、小道の途切れ目で私を待ち伏せする振りをすることにより、私が彼奴を待ち伏せしていると勘違いさせたのだ。実際彼奴は、姿も行動もあまりに私にそっくりなので、私ですらどちらが私でどちらが彼奴なのか分からないくらいなのだ。

 そのことによって彼奴は、女性の首を絞めているのは、私ではなく彼奴だと私に思いこませた。もし女性の首を絞めているのが私自身だと知っていたならば、私は首を絞めることをやめたはずだ。しかし私は、女性の首を締めているのは彼奴だと信じ込んでいたせいで、もう間に合わないと思って、ただ見ているしかないと諦めてしまったのだ。こうして彼奴は私に怖ろしい殺人の罪をなすりつけた。何と言う巧妙な手口だろう

 しかし誰がそんなことを信じてくれるというのだろうか。実際に彼奴を捕まえて、白日の下にさらさない限り、誰もそんなことを信じてはくれない。しかも、彼奴はすでに夜の闇の中に逃げ込んでしまった。これからどうすればいいのか。

 冷たい夜風に吹かれてひんやりと冷えてしまった精液にまみれた指を、女の首の生々しい痣に這わせながら、私はふと満月を見上げて途方に暮れたのであった。

解説

こういう「騙し絵」的な要素のある小説も本当に好きで何度も何度も書いているな。

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