淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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The road to hell is paved with good intentions

物語の魔法の物語

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物語の魔法の物語

 「この広い世界には」月がそう話しはじめたので、私は手を止めて夜空を見上げました。「きみと同じように、何かに夢中になりやすい青年がたくさんいるものです。そんな若者の一人について、きみに話してあげましょう」。

 

 

 その青年は、本を読むのが好きでした。なかでもなにより、『絵のない絵本』という小さな本が好きでした。あまり長くないし、なにしろいろいろなお話が入っていますからね。でも好きが高じてそれを繰り返し繰り返し読むうちに彼は、きみと同じような、月に囁かれる人の一人になってしまいました。毎晩毎晩、住んでいた狭い部屋の小さな窓からわたしを見上げ、白い光に耳を澄ますようになってしまったのです。

 あるときわたしが、芸術で身を立てる夢を見てコペンハーゲンに出た、彼と同じように貧しい少年の話をしてあげていたときです。彼はその少年こそ、わたしの語った物語を絵にしていった絵描きと思いこみ、どうしてもその絵が見たいと思いつめてしまいました。

 彼は旅に出ます。白い余白の海を船で越え、天の文を道しるべに、ページの裏と表をひとまたぎ。夜空の柄杓がつめたい北の海をすくうごとに、彼を見降ろし照らし出すわたしだけを道連れに、長い旅路は続きます。

 万里の書を読み、万巻の道を踏み越え、とうとう彼は、北欧のパリ、デンマークはコペンハーゲンへとたどり着きました。大道芸人達に溢れ、サーカスのようになっている街道を通りすぎ、画家が夢と空だけを持ちものに住んでいた、狭い小路の屋根裏部屋を探しまわります。

 彼はそんな部屋の一つを見つけました。今は空いているらしく、空っぽのベッドしかないがらんとした部屋です。留学生か何かかと思った管理人が、甲斐甲斐しく隅々まで案内してくれました。

 そもそも当時の部屋が今も残っているかどうかなんて、彼には全く分かりませんでした。それでも彼は、ここがあの絵描きの部屋であるような気がしていました。

 彼が『絵のない絵本』を読むとき、ほかの小説を読むのとは少し違うことが起きるようなのです。物語を追いかけるのではなく、物語の中の一瞬の情景を切り取ってきた、まさに〈絵〉を眺めているような、そんな心もちがするのです。そして今彼には、眼前のオレンジ色の屋根ごしに地平線に灰色の煙突が突き出している風景が、まるで以前に見たことがあるような気がするのです。そう、まるでこの風景を描いた絵をかつて見たことがあるような。

 彼は、一体何百年前からこの街を見守り続けていたのか分からなくなっている、化石のような老管理人に、昔、毎夜月に囁かれていた絵描きが住んでいなかったか訊ねましたが、思い出してはくれませんでした。

 しかしそれならばと管理人は、となりのもう一つの部屋に、彼を招きいれます。今までの住人が残していったもので溢れて、雑然とした倉庫になってしまっている場所です。

 もしかしたら、ここに何らかの手がかりがあるかもしれない。彼は管理人を帰らせて、一人部屋を調べはじめます。ぼろぼろの箪笥や古ぼけた物入れを開けると、色あせた赤い靴、古いマッチ箱、欠けて小さくなってしまった火打石、干からびたエンドウ豆、同じ引き出しに入っていた独楽と毬、どれもガラクタばかり。それらを押しのけながら、必ず絵描きのいた証拠がどこかにあるはずだと思い、彼は探し続けました。

 しかし結局、油絵の描かれたキャンヴァスも、紙に描かれた水彩画も、それどころか落書き一枚すら、どこにも見つかりません。

 夜になり、わたしが小さな窓から中を覗いた時には、彼はまるで舞台の上で今から一人芝居を始める道化師のような雰囲気で、わたしが投げかける銀色のスポットライトの真ん中に立ちつくしていました。見つからない探しものに気落ちし、足元にあったボロボロのトランクに腰掛けて、溜息をつこうとします。しかし、トランクが思ったよりも軽かったせいで体勢を崩し、まるでトランクが急に空を飛ぼうとしたかのような驚きようで、尻もちついて倒れてしまいます。

 腰をさすりながら起きあがると、トランクの蓋が開いています。暗い部屋の中では、なかは空っぽのように見えます。しかしわたしの一条の光が、その底に何枚もの紙が散らばっているのを浮かび上がらせました。

 彼は、絵描きの残したスケッチだと思って、あわてて拾います。しかし、それは絵ではなく、手書きの文章で、どうやら物語か小説のようなものでした。彼はがっかりしながらも、紙束を持ったまま窓枠に座ると、わたしの光で読みはじめました。

 それは『絵のない絵本』でした。

 読み進めていくにつれ、彼の眼前に様々な世界が広がります。そこはそうぞうしいパリ。そこは暁の光が輝くリューネブルグの荒野。そこは死都ポンペイの墓場のような通り。アフリカの砂漠の手前にある岩塩平原。悠然と流れる悠久のガンジスのほとり。雪と氷に包まれたグリーンランド。

 そしてさらに、そこは夜のコペンハーゲンなのでした。今彼が小さな窓から眺めている、青白い光に照らされた夜のコペンハーゲンでした。幾つかの建物が変わって、電灯が多くなり、街の中心部がかなり明るくなっていますが、たしかに同じ街の景色だと、彼は確信します。

 いろいろな景色が、まるで〈絵〉が目の前にあるように、細部に至るまで彼には見えていました。いえ、まさにそれは〈絵〉だったのです。

 彼が探し求めていたものだったのです。

 彼は窓枠からふと夜空を見上げ、わたしと目を合わせながら、呟き始めました。

 「ふしぎなことだ! 絵描きは実は絵を描かなかっただなんて。でも彼はこうやって、文章で絵を描いていたんだ。でも、ありうるんだろうか? 文章自体は同じなのに、手書きだからって、イメージがこうも鮮明になるなんて。においや肌触りまで感じて、まるで僕がそこにいるようだ。なんだかまるで魔法みたいだ……」

 彼は突然黙りこんで、目を見開きます。それから、わたしに向かって、まるで子どもの悪戯を見つけた親のようにほほ笑みました。

 「そうか、そういうことか。魔法が許されるのは、物語の中だけ。と言うことは、月よ、ここも君が僕に話してくれた、あの数多くの物語の、新しい一つの中なのだね。いや、まいった。どうやら一本とられてしまったようだ。一体、旅の途中のどこで僕は、お話の内と外との境界線を越えてしまったのだろうか。全く気付かなかった」

 と彼は朗らかに笑います。笑いながら、彼は原稿を魔法のトランクの中に戻し、その上に跨ると

 「君は教えてくれた。物語ることも、絵を描くことも、そのまま魔法なのだと」

 と呟いて、夜空に向かって……

 その時、月と私の間に雲が割りこんで、話をさえぎってしまいます。

 私はそれからしばらくのあいだ、夜空を見上げつづけていましたが、雲は厚くなるばかり。今夜はもう話の続きは聞けないものと諦め、道具を片づけて寝る準備をはじめてしまいました。

 でもしばらくしたあと、私はまだ起きていました。

 ベッドに入ったあともずっと、月の話を思い出していたのです。なんだかおかしな気分でした。というのも、今夜の月の話は、あまりにいつもと勝手が違いました。いつもと違って、なんだか絵にしにくい感じがするのです。

 私はベッドから起きあがって、スケッチ用の木炭と紙をもう一度古ぼけた物入れから取り出し、灯りもつけずに窓際に歩いて行きました。もしかしたら、また月に会えるかもしれないと思ったのです。

 月はあいかわらず雲にかくれたままでした。なのに、もう一度窓から夜空を見上げた次の瞬間、すべての疑問と胸のつかえがしゅるしゅると解きほぐれていくのを、私は感じたのです。

 空を雲がおおっているのに、夜の街は奇妙に明るく、地平線に見える灰色の煙突までがぼうっと照らし出され、それはそれはふしぎな、美しい夜でした。

 私はせっかく持ってきた木炭の欠片を床に落としてしまったことにも気付かずに、ただこう思ったのです。

 こんな夜には、月だって冗談の一つも言いたくなるのだろう、と。

解説

京都のカフェAPIEDが発行している文芸雑誌APIEDのvol.21のアンデルセン特集号に載せてもらった作品。

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