淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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The world is full of fascinating problems waiting to be solved

走馬灯

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走馬灯

 ある時ある所にある男がいました。

 その男は、今まさに自殺しようとしているところです。どれくらいの「今まさに」かと申しますと、マンションの九階から飛び降りて現在だいたい二階ほど落ちたところ。つまり下から数えると七階付近。まあ、そんなところの「今まさに」なんです。

 この男、年は二十歳。未来ある若者です、と申しても何の問題もございません。その彼が、夢と希望に満ちた青春を謳歌しているはずの彼が、どうしてよりにもよって自殺なんかをしたのでしょう。いったいそれはなぜでしょうか。

 まあ、それはひとまずおいといて。

 人は死ぬときに、彼が生きてきた人生を、まるで走馬灯のように見るといいます。彼もその短い人生を、懐かしさや悔しさを感じながら、今まさに眺めているのかもしれません。 今回は、少し失礼して、それを覗かせてもらうという趣向でございます。

 先ほども申しましたように、現在彼は、九階あるうちの上部二階を過ぎたあたりを、話の都合上静止してもらっています。つまり我々が覗こうとしている走馬灯も、二階分過ぎてしまいました。人間というのは不思議なもので、このような時、神経の極度の緊張により、時間が引き延ばされて感じられるのだそうです。よって彼も、もしかしたらその人生の大部分を、走馬灯によって見てしまった後かもしれません。すると、たとえば、彼の人生の中の大きな部分を占めているあの大恋愛とその破局や、また自殺の直接の原因となったと思われる親との軋轢なども、もしかしたら終わったあとかもしれません。もし、皆さんがその辺の事情について知りたいとお思いなら、時間を巻き戻さなければいけませんが、 そうなると結構面倒なので、今回は省略させてもらいます

 別にいいでしょ。

 はい、それでは、時間を動かしますね。

 えいっ!

 ガットン   ゴッゴッゴッゴッゴ (時間の動き始める音)

ふう、動き始めました。

それでは、早速覗いてみましょう。

えっと現在の年齢は、………あれ、二十五歳?おっかしいな、こいつ二十歳で死ぬのに何で二十五歳なんてでてくるんだ。仕方ないな、ちょっと様子見るしかないか。じゃあ、とりあえず始めちゃいますんで。

 

 

 大学を卒業して、そこそこの会社に就職した俺は、別になんてことのない日常をおくっていた。可もなく不可もない暮らし。俺にとったら、親とはなれて暮らせるんだったらどこだってよかったんだ。

 会社での俺は自分で言うのもなんだが、猫をかぶっていた。いちいち人につっかからなくても、生きていける。俺も大人になったものだ。そして、そのころだったな。彼女が俺の前に現れたのは。

 

 

 あれぇ、やっぱおかしいよなぁ、これ。大学卒業する前に死ぬやつが、どうして就職なんかしてるんだ?どっか故障してるんじゃないだろうな。時間もう一回止めてチェックしなおそうかなぁ。でもこれ、一回動き始めると止めるの一苦労だし。えっと、今どこまで落ちたんだ?だいたい五階ぐらい。年齢は32で、あっ、こいつ、知らないうちに結婚までしてるよ。

 

 

 俺は幸せ者だ。まさか俺が「幸福な家庭」なんてものを持っちまうなんてな。あのころの俺に言っても信じてはくれまい。娘もかわいい。何より俺に似てないのがよかったよ。もし俺なんかに似たら、母親を泣かすようなやつになるに決まっているからな。結婚のときはまた親父と一悶着あったが、今考えると、あれが仲直りのきっかけなのだからわからないものだな。仕事のほうはあいかわらず、ぼちぼちとしか言えないような出来だが、今の俺は、仕事に精を出すには少々幸せすぎるのかもな。

 二人目は男の子か。一姫二太郎なんて、最近あんまり聞かねえが、親父も喜んでいる。ただ今回は少し難産だったので、肝を冷やしたよ。だから赤ん坊の寝顔と、梢恵の笑顔が見られたときは、本当にほっとしてその場にへたり込みそうになった。翠が赤ん坊をみてキャッキャとはしゃいでいるのは、一生忘れないだろう。この子の名前は、葉(よう)にしよう。

 

 

 「一生忘れないだろう」って、君の一生はもう終わっているはずなんだがな。一体全体どこでおかしくなっているんだろう。ちょっとまてよ。今三十代で、もうすぐ四十代に突入。今、ちょうど五階の床を過ぎて四階に入ってきたところで、ほぼ同時に四十代突入。六階で二十代、五階で三十代。六階は上から数えると三階めだから………

 

 

 梢恵、俺をおいていってしまわないでくれ。俺はお前がいないとだめな人間なんだよ。子どもを三人も抱えた、たいした仕事もできるわけではない四十代の男やもめ。これから俺はどうすればいいんだ。失って初めて、その大切さに気付くものがある。結婚してから長い時間がたち、俺はだんだんお前のことに気を使わなくなっていた。言い換えれば、お前は、俺にとって空気みたいだったのかもしれない。その証拠に、俺は今胸がどうにかなってしまったかのように、苦しくて仕方がないんだ。悲しみにおぼれて窒息しそうだ。すぐにでもお前の後を追いたいよ。だが俺には三人のお前が残してくれた子どもたちがいる。一番上の翠もまだ十三歳だ。一番下の幹夫は小学校に上がったばかりだ。桜も散り、新芽の青々しい若緑が目にまぶしいこの季節に、なぜ俺は涙にくれなければいけないのだ。

 

 

 わかった、ようやくわかった。九階から八階の間に零代、八階から七階の間に十代、という具合に見ちゃって、この男、早死にしすぎて走馬灯のほうが、人生のほうを追い越してしまったんだ。あれっ、すると、こいつが今見ているのは結局何なんだ?こいつがこの自殺で死ぬとしたら、今見てるこの人生は、なんだかわかんなくなってしまう。あらら、またわけがわからなくなってしまった。

 

 

 梢恵、私も今年で五十五歳だ。お前がそっちにいってからもう十年もたってしまったよ。なかなか大変な十年だったよ。お前がどれだけ忙しかったか、本当にわかった。自分がどれくらいなんにもできない人間か、本当によくわかった。家事洗濯掃除買い物近所づきあい。ほかにも数え切れないくらいある。お前は本当にこれだけのことを、何食わぬ顔でよくやったものだ。冗談じゃなく尊敬するよ。私が何とか耐えられたのは、翠や葉の手助けももちろんあるが、やっぱりお前が見守ってくれていたからだと思う。

 最近はようやく暇になったよ。仕事は相変わらずだが、翠は結婚しちまったし、葉も大学生で自分の学費ぐらい自分で稼ぐ。幹夫は小さいころからお母さんがいなかったからか、兄さん姉さんの影響かしっかりした子でね。今のところ私は自分のこと以外特に気にすることがないんだ。

 そうだ、この前親父が死んでね。あんなに乱暴な人だったけど、最後は癌でね。なんだか小さくなって死んでいたよ。それで昔のことをたくさん思い出してね。お前と出会ったころや、親父とけんかばかりしていたころ。今ではみな、懐かしい思い出だ。だけどそのころのことで、どうしても思い出せないことがあるんだ。すごく重要なことのような気もするし、思い出さないほうがいいような気もする。でもなんだかすごく気になるんだ。

 

 

 ちょっと待てよ。じゃあこいつはもしかして死なないのか?たとえばこいつがここで奇跡的に死に損ねるとすると、今見ているのは、未来ということになる。でも果たして九階から落ちて生きていられるだろうか。地面はコンクリートなんだぞ。

 

 

 もうみんなひとり立ちしてしまったし、私もついに定年だ。贅沢がしたいわけでもなく、普通の暮らしができればそれでよい。気楽なものだ。今は、一日中ひまなので、昔のことばかり思い出している。昔は馬鹿なことばかりしていた。周りの人間はみんな馬鹿だと思っていたし、またそう思っている自分こそが馬鹿だと考えたりもした。自己嫌悪に陥ってみたり、反対に自信過剰になってみたり。自己嫌悪に陥ること自体が自意識過剰の証拠だと考えて、頭の中を八方塞がりにしてしまったりした。何よりあのころは私も若かった。自信のなさが外に現れると、他人への敵意となる。敵を作ることへの恐怖感が、余計に敵を作ってしまう悪循環。梢恵によってドロ沼から救い上げられるまでの俺は、今から考えるとこっけいなくらい哀れだ。特に二十歳のころはひどかったはずだ。あのころは親父との仲が最悪で、家出したっきり家とは音信不通だった。失恋もしたし、大学でもうまくいっていなかった。ただあのころのことは正直よく覚えていない。なぜだかは、自分でもよくわからないのだが、やはりいやなことは忘れてしまうのだろうか。いや、しかし、会社に入ってからの苦労はよく覚えていて、いい思い出になっているのに。あのころ、何があったのだろうか。何かひどく気になる。

 

 

 もう二階を過ぎて一階に入るところだ。こうなりゃ最後まで見るしかないな。えっと現在の年齢は、七十六と。結構長生きしたな、こいつ。

 

 

 梢恵、もうすぐそっちに行くよ。私ももう、今年で喜寿を迎える。まさかこんなに長生きできるとは、思いもよらなかった。いい子どもたちがいて、いい嫁や婿をもらって、たくさんの孫に囲まれて、私は本当に幸せだ。ここに、梢恵、お前がいてくれたら完璧なのにな。もしそんなことになったら私は幸せすぎて死んでしまうよ。

 

 最近はさすがに体の調子もよくなくてね、いすに座ってぼうっとしていることが多くなった。家に来ているヘルパーさんが、気がついたら死んでいるんじゃないかと、心配している。ぼうっとしているとだんだん自分の中に沈みこんでいき、古い忘れていた記憶が浮かび上がってくる。記憶の底でほこりをかぶっている何かが、もしかしたら何か重要な秘密、自分でさえ知らないような私の秘密なのかもしれない。そうだ、やはり問題は二十歳のあの日、親父とけんかして家に帰る分けにも行かず、大学に行く気にもならない、いついていた女の家からさえ追い出されて、どこにいったらいいのかまったくわからなくなっていたあの日々のある一日。あの日に何かがあるような気がしてならないのだ。確かあの日、いつかはよくわからないあの日、私は世の中のことがすべてどうでもよくなってしまったのだ。家族、世間、友達、将来、勉強。すべてのものがくだらなく思えてきたのだ。そして私は、そしてわたしは。そして俺はどうしたのだったっけ。

 

 

 ちょうど、八十歳。体のほうは地面に衝突寸前。

 

 

 梢恵、今からそっちに行くよ。年寄りのくせに、天気がいいから散歩でもしようなんて若ぶるからこのざまだ。トラックにはねられて死ぬなんて、運転手の迷惑を少しは考えろ、といわれそうだ。十分長く生きたからこの世に未練なんざ無いが、もう少し人に迷惑をかけない死に方がしたかったな。しかし不思議なものだ。車にはねられて吹き飛ばされたのだから、すぐにでも地面に叩きつけられるはずだが、まるで時間が止まったようだ。周りのものがすべてスロウモーションになったみたいに見える。まるで映画みたいだ。そういえば前にもこれと似た感じを受けたことがあったような気がする。あれはいつのことだったか。

 まるで夢のようだ。すべてがふわふわしている。思えば、私の人生も夢のようだった。長かったようで、思い返してみると、まるで一瞬のうちに過ぎ去ってしまったように思える。会社での下積み時代、梢恵との出会い、そして結婚、子どもたち、梢恵の死、子供たちの成長、そして孫たち。それ以前のことだってある、楽しかった子供時代、まだ親父と仲が悪くなっていなかったころ。ああ、どんどん思い出していく。目の前を次々とあのころの風景が通り過ぎていく。これが人が死ぬときに見るという、走馬灯なのだろうか。

 学生時代、暗い時代。親父とは諍いばかり起こし、お袋は泣いてばかりいた。他人がみな自分を馬鹿にしていると思っていた。そして二十歳のあの日。俺は、俺を馬鹿にした世界への当て付けのために、できるだけ目立つ場所で、できるだけ確実な方法で、できるだけ人通りの多い時間に俺は………

 そうだ、俺は自殺したんだ。すっかり忘れていた。どうして今まで思い出さなかったんだろう。あのとき俺は目に付いた高いビルに登って。そして俺は。そして俺は、どうなったんだ。おかしい。ここで記憶が抜けている。すっぽり抜け落ちている。思い出せないんじゃない。忘れてしまったんでもない。最初かそこの部分はなかったみたいに抜け落ちている。なぜだ。なぜだ。なぜなんだ。

 そっ、そうか。俺はあの時死んだんだ。死んでしまったんだから覚えていないのは、当たり前といったら当たり前だ。

 あれ、そうするとその後の俺はどうなるんだ。俺の会社員時代は、俺の結婚は、俺の子どもや孫たちは、そうだ、梢恵、梢恵はどうなるんだ。全部、全部幻だったってことなのか。俺の愛は、俺の悲しみは、俺の人生は、どうなるんだ。あれ、ちょ、ちょっと待ってくれよ、おい待て、あれれ、あら、えっ、はぁっ?おい、まてったら、

 え? え? え? え? えええ???

 グシャァッッッッッッ!!!

ええっと、なんだかよくわからなかったけど、まあ彼も、二十歳で自殺しておきながらあんないい老後を向かえられたのだから、彼の人生もそれほど悪い人生じゃなかったと言えないこともないような気がしないでもないようなあるような………………………(終)

解説

名大文芸サークルのup板にはじめて載せた作品であり、それどころかはじめて公にした作品。

それ以外は発表時期だなんて書いているが、あくまで身内や友人にしか見せていなかった。

そういう意味では思い出の作品でもある。

ただしネタ自体はかなり前から温めていた覚えがある。

これを発表したのが大学二年で、大学一年には一応できたばかりの名大文芸サークルに参加し、名大祭でレビューに参加したり、その時読んでいたヘシオドス『神統記』の適当に開いたページで今も続く部誌『泡(アプロス)』の題名を決めたり、売り子として無茶苦茶な宣伝文句を大音量でがなりたてたりしていたが、

自分のノリが合うかどうかの不安なども有り、それほど深くは関わっていなかった。

というか次の年の名大祭までときどき例会に顔を出す程度で、一人図書館にこもって本を読んでいたのだ。そのときマルケスの『百年の孤独』を自動車学校さぼって読んでいた覚えがある。

そして二年目の名大祭でまた飛び入りの売り子として、バナナの叩き売りめいた路上パフォーマンスを繰り広げていたところ、「その前に小説書けよ」と『このライトノベルがすごい』の執筆陣だった草三井氏に怒られて、急に書き始めたのだ。ネタはたくさんあったので、一気にいろいろ書いたのを覚えている。

その最初の作品がこれだったのだ。

狂言回しが出てくるのがコルネイユみたいで良い、と草人七氏になかなかすごいこと言われたのが嬉しかった。

あと思い出深いのが、唯一の「wordで書いた小説」だったことだ。

名大文芸サークルが、これまた『このライトノベルがすごい』の執筆陣だった白翁氏を始め、名大の工学部を中心として結成されたので、特に初期は理工系の人間が多かった。なので入るとまず言われるのが

「エディタを使え!」

ということだったのだ。

その理由の一つに

「ワープロソフトは起動が遅い」

というのがあったのが、なんとなくクラシックな技術ギークっぽくて今となっては趣を感じる。うちのvimもemacsも相当遅いけどな。

でも実際wordは英語用のワープロソフトだし、長い文章を書くときは、wysiwyg(what you see is what you get: 画面表示と最終出力が一致する)ではなく、外見と内容が分離していた方が良いと思う。

原稿用紙で書いていた頃は、分離されていたんだし。

どうしても初心者がwordを使うと、空白を使ってインデントしたのと、書式を使ってインデントしたのが混じっていたりと、外見と内容がこんがらがってしまっていたりするものだ。分かって使えばちゃんと使いこなせるが、あまり教育的によろしいソフトとは言えない。

タイポグラフィで遊ぶときのような作品でない限り、内容を書くときは内容だけに特化したエディタがやはり良いだろう。

私は数ページの資料を作成するときはlibre officeのwriterを使い、それ以上のちゃんとしたものを作るときは、エディタで書くと使い分けている。

それにエディタは無駄な機能がついていない分、正規表現を使った高度な検索・置換や、背景を換えられたり、半透明にできたりと、より文章作成に特化した機能を使える。とくに後者二つはwysiwygでは絶対にできない。

自分の環境を整えることにより執筆のモチベーションが上がるので、これらの機能は絶対にほしい。

手書きの時代に物書きが筆記用具や原稿用紙にこだわったように、今の時代物書きはパソコンや執筆用のソフト(エディタ、ワープロ、感じ変換ソフト、ヴァージョン管理ソフト、進捗管理ソフト、構造化文書のための言語、電子書籍フォーマットへのコンパイラ)に拘るべきだと思う。

これらの考え方の基礎を叩き込んでくれたのが、名大文芸サークルだった。葉山一色氏の作った「Texで小説を書こう」のページ、まだ存在してるな。

というわけで、「エディタはフリーなのを自分で探せ」と言われた私は、NoEditorというのをしばらく使っていた。当時は特にエディタの高度な機能を使うことはなかったが。

その後、sakuraで書いていた時期もあったし、emacsで書いていた時期も、vimで書いていた時期もあったが、まだ理想の環境には出会えていない。emacsやvimの設定をいろいろ弄って、小説のためだけのIDEを今も夢見ている。

なお、この作品をwordで書いたとき、フォントの大きさを換えたりなど、ワープロの機能を使ったが、それは当然、up板に投稿するときは、消えてしまっていた。今回htmlでそれを再現した。

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