淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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And now, for something completely different

失われた記憶

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失われた記憶

 記憶喪失というのは困ったものだと思う。当たり前なことに聞こえるかもしれないが、今切実のそう思う。実際に記憶を失ってしまう人たちがどれくらいいるかは知らないし、記憶喪失をしてしまった人を見た記憶もない。ただぼんやりと小説とかで呼んだ記憶が残っているくらいである。おそらく、記憶喪失なんて陳腐なものは、現実ではとっくの昔に時代遅れで、流行り廃りに疎いフィクションの世界にしか残っていないものなのだろう。しかしフィクションの世界の記憶喪失にはある一定のパターンがあって、それが踏み外されることはほとんどない。昔それについて知り合いと語ったことがあるような気がするのだがよく思い出せない。まあいい、もう一度、議論を構成しなおせばよい。多分、私はもっといろんな記憶喪失があってもいいのに、と思ったのだろう。ないものねだりというやつだ。

 記憶喪失のパターンの代表例をあげてみると例えば漂着型。海岸に美女でも美男子でも美少女でも美少年でも何でもいいからそんなようなものが流れ着いて、そんでもって記憶がない。名前もどこから来たのかもわからない。思い出そうとすると原理はよくわからないのだが頭を抱えて苦しみ始めるとなお良い。唯一の手がかりとして指輪とかペンダントとかロケットとかミサイルとかを身につけていると完璧だ。ピアノがうまいとか、人並みはずれた運動神経とか、いざとなると額に竜の紋章が浮き出るとか、そういうなぜ身につけたか覚えていない特技とかがあってもいいね。

 ほかにも。普通の部屋(もしくは病室)で、普通のベッドで起きたんだけど記憶がないとか。細かく分類すると、周りの人物が、彼のことを知っているかどうかとか、事故など記憶を失った原因がわかるかどうかとかで、いろいろな分類の仕方ができるだろう。だけどどのタイプにもある共通点がある。記憶を失うのだからおそらく何か事件があったのだろうけど(何の理由もなく記憶喪失になるのも面白いかもしれないけど)、その事件がひと段落着いてから、記憶喪失であることに気づいている点だ。これには何か理由があるのだろうか。別に事の最中に記憶喪失になってもいいのじゃないだろうか。例えばはっと気づくとあなたは何も覚えていない。そして今はスカイダイビングの真っ最中だ。どんどん近づいてくる地面。でもあなたは自分が何をするべきか覚えていない。もしくははっと気づくとあなたは何も覚えていない。そして今は爆弾処理の真っ最中だ。後ろで誰かが「何をボケッとしている! 死にたいのか!」と叫んでいる。だがあなたは自分が誰かも、そこで何をしているのかも思い出せない。ほかにははっと気づくとあなたは椅子に縛り付けられている。目の前には屈強な男たちが立っている。彼らはあなたから何かを聞きだしたいようだ。しかしあなたは自分が誰かもわからないのだから、一体何を答えていいのか、何の事を聞かれているのかもまったくわからない。あなたは一本ずつ指の骨を折られ、髪の毛を皮ごと引きちぎられ、目に針を差し込まれ、耳に熱湯を流し込まれる。別に溶けた金属でもいいよ。あなたが男ならこういうのはどうだろう。はっと気づくとあなたはなぜかまぐわいの最中だ。もちろん目の前の女には見覚えがない。自分の顔だって身に覚えがないんだから仕方がない。事が始まる前だったら相手は怒るかもしれないが、急に気が変わったと服を着てすたこらさっさのほいさっさ、と一目山隋徳寺と決め込むこともできよう。だが今はまさに事の最中、ピストン運動の真っ只中だ。相手方も非常に乗り気で、両腕であなたの肩にしがみつき、ぐいぐいあなたを締め付け、「ああ、もっと、もっと突いて!」と嬌声を上げる。ここでおもむろに体を離し、急に気が変わったと服を着てすたこらさっさのほいさっさができるならそれはそれで面白いが、そうは問屋が卸さない。さあ、フィニッシュの時が近づく。そこであなたは装着していないことに気づくのだった。さあ、どうするどうする。もしあなたが女性なら、この反対のシチュエーションを考えて見てもいいかもしれない。つまりはっと気づくとあなたはなぜかまぐわいの最中だ。もちろん目の前の男には見覚えがない。自分の顔だって身に覚えがないんだから仕方がない。事が始まる前だったら相手は怒るかもしれないが、急に気が変わったと服を着てすたこらさっさのほいさっさ、と一目山隋徳寺と決め込むこともできよう。だが今はまさに事の最中、生きるとは入れて出すの繰り返しであることの実演中だ。あなたは相手の上に馬乗りになり、激しく腰をゆすぶりながら、「ああっ、凄い、すごいのぉ!」とかなんとか叫んでいる。ここでおもむろに体を離し、急に気が変わったと服を着てすたこらさっさのほいさっさができるならそれはそれで面白いが、そんなことたとえ私が許しても天がけっして許さない。相手の表情の変化であなたはフィニッシュが近いことを知るが、そこであなたは相手が装着していないことに気づく。さあ、どうなるどうなる。ねっ、困るでしょう、記憶喪失って(記憶喪失関係ない気もするが)。しかしなんか考えてみると、このシチュエーションでは女性のほうが不利だ、という意見が出るような気がしてきた。私はフェミニストなので、もう少しバランスをとってみよう。男にとってこれと同じくらい嫌な場合を考えようとすると、例えば相手が凄くブスだとか、そんでもって、「結婚してくれるって本当?」とか聞いてきたりする場合だろうか。もしくは相手が男だとか。あなたは「ああっ、もっと、もっと深く!」と呻いているところではっと気づく。そしてあなたは痛みの中に、新しい快楽を発見してしまうのだった。

 なんだかより困るシチュエーションを勝手に考えて、困るだろう困るだろう、といっているみたいで無益な気がし始めたから、ここら辺でやめようと思うが、ほかにも上げようとしたら切りがない。結婚式、相手(どんな相手かは想像に任せます)はあなたのキスを待っています。でもここはどこ私は誰? 出産、新しい命。でもここはどこ私は誰?(これは基本的には女性限定ですが、男性が気がつけば出産の途中というのもある意味面白いでしょう。どんな意味なのかはよくわかりませんしそもそもいってる意味がよくわかりませんが) 大統領就任演説、でもここはどこ私は誰? 目の前には新しい惑星、課せられた重い任務、でもここはどこ私は誰? 目の前には「何をしている、早く殺せ」と言っているぼろぼろの男が倒れている、そしてあなたもぼろぼろだが、あなたは立っていて、あなたの手の中には拳銃が、でもここはどこ私は誰? 

 そしてちなみに今の私の状況は、はっと気づくと周りを黒スーツの人たちに囲まれていて、自分はロープでぐるぐる巻きにされている。近くには同様にぐるぐる巻きにされている男が「てめえ、このやろ」だかなんだかそんなようなことを叫びながら転がっている。そいつの顔は素人が作ったアンパンマンみたいにパンパンに腫れている。そのせいで発音が定かでなく何を言っているかよくわからない。私自身も顔の感覚がないことから同じような感じになっていると思われる。黒スーツの一人が、「てめえ、うるせえんだよ、状況わかってんかよ!」と叫んで、転がっている男のどてっ腹を蹴飛ばした。ゴボゴボ風呂のお湯が流れ去る直前みたいな声を喉の奥から出して床をのた打ち回る。あれだけのた打ち回れるならまだしばらくは大丈夫と思える、『雨に歌えば』のドナルド・オコナーもびっくりののた打ち回りようである。それをぼけっと眺めていると、突然胸倉を捕まれて「おめえは、やけに落ち着いてやがんなあ」と突然目の前にサングラスに咥えタバコのおっさんの顔が出現する。いやいやいや、落ち着いてなんかないですよ、ただ何がなんだか分からないので呆然としているだけですよ。はっと気づいたらこんな状況で、あなたたちが誰なのかもあそこで転がっている不細工アンパンマンが誰なのかも自分が誰なのかも、どうしてふんじばられて転がされてぼこぼこにされているのかもよく分からないから、現実逃避をして「ああ、昔こういう風なことを考えたことがあったはずだけど、思い出せないなぁ」とぼけっと考え事をしていただけですよ、と言おうとしたんだが、口がうまく動かず「てめえなめんなうなこるぅあが!」とよく聞き取れないことを叫ばれて、地面に叩きつけられて後頭部を強く打った。思い出したわけではないが、自分が記憶喪失になった理由が分かったような気がした。

 そのとき、黒スーツの海がパカッと二つに分かれて、その間を恰幅のいい中年男性がモーセのように悠々と歩いてきた。並み居るメンインブラック達は直立不動だ。頭は古典的なパンチパーマで、服は馬鹿に高そうな背広、上下にオップアートみたいな縦ストライプが走っていて見ていると気が狂いそうだ。多分裏地はもっと形容を拒絶したような柄に違いない。あとタモリが昔していたような大きめのサングラスと突いているステッキが印象的だ。この男がポケットに入れていた右手をゆっくり口元に持っていくと、黒い群れの中から何人かの男が走り出して、一人が葉巻を取り出しシガーカッターで吸い口を切り、もう一人がすばやくそれを男の指にはさみ、さらに別の一人がバーナー式ガスライターで手の動きにあわせて均一に火をつけた(これがすべて歩きながら行われたのだ)。こうして手が口に到着した時には見事に唇の間に葉巻が収まり、もくもくと紫煙をあげてはじめる。そして男の右斜め前にはひざ立ち姿勢になりながら賢明に歩調を合わせている男が、水を掬ぶように手のひらで皿を作って頭上に掲げている。トントンとそこに灰が落とされてもまったく表情を変えない。一見してこの集団の長だと分かる人相だ。とりあえず組長とよぼう。

 「こいつらがそうか」

 組長は私と仰向けに転がっている私と、向こうで丸くなっている転がっている男を交互に見比べた。サングラスはさほど濃くなく、その向こう側で双の眼が強い憎しみにゆがむのが見えた。その目は真っ直ぐに私を見ていた。

 「はい、そうです」

 組長の横に、やはり黒スーツであるが、七三分けで黒縁の角縁めがねをかけたまじめそうな男がいつの間にか擦り寄って、そう言った。

 「どうします、できるだけ苦しめて殺しますか」

 一切表情を変えずにそう言った。

 「簡単には殺すな。ただ時間はかけなくていい」

 組長は必死に声を抑えてそう言った。静かな声の裏に身を焼き尽くすほどの怒りがたぎっているのが分かる。怒りで死ぬことができるなら今すぐにでも死ぬと言う顔で、歯を食いしばっている。そしてゆっくりと私のほうに近づいてきた。灰皿男の手のひらでぐりぐりと葉巻を捻りつぶす。ペッとつばを飛ばすと、痰壷役の男が口でそれを受け止めた。

 「貴様らが一秒でも長くこの世に生きていると考えただけで、反吐が出るわ!」

 最後は絶叫だ。叫びながら先のとがった本皮の革靴で耳を蹴飛ばされ、踵で喉仏を踏み潰され、ステッキで滅多打ちにされた。途中でステッキが折れたはずだが、何の遅延もなく振り上げられ振り下ろしたときには新しいステッキになっていて、もしかしたらステッキが折れたように思ったのは気のせいだったかとも思ったが、目の前に破片が転がっていることから推察するに、あれは気のせいではなかったようだ。

 頭からは血がとめどなく流れ落ち、片目がつぶれたのか血を失いすぎたのか、視界が狭くなった。打擲の雨がやんだので、その狭まった視野で上を見上げると、組長の顔を見えた。その顔は今では怒りではなく悲しみに歪んでいるように見えた。その目に涙が浮かぶかと思えたその瞬間、組長は身を翻し、また黒スーツの海を真っ二つに割りながら去っていこうとした。

 「殺せ」

 組長はそうつぶやいた。

 「あの、どのように」

 角縁めがねがそう尋ねると、

 「どんなやり方でもいいから、殺せ!」

 と叫んで、足早に去っていった。何人かの男がその後ろをひょこひょこついていこうとすると、組長は「ついてくるな!」と絶頂期の間寛平のように杖を振り回した。

 組長の退場後、しばらくはしんとして、何も動く気配がなかった。そのうち、静かな湖畔に徐々にウシガエルの合唱が始まるように、うめき声が散発しはじめた。黒スーツたちの何人かが泣いているのだ。奥歯を噛み締めて、声をかみ殺し、ひたすら涙を飲み込み続けている。一人がよよと泣き崩れそうになると、隣の男が「馬鹿野郎、しっかりしねえか!」と支えた。角縁めがねもめがねを外して、ハンカチーフで目頭を軽く拭いている。そしてめがねを戻しハンカチーフをポケットに戻すと、黒い群れの中をしばらく眺め、その中の一人に目を留めた。

 「お前、やれ」

 そう言われると、集団の中からまだ若い男が一歩前へ出た。角縁めがねがこの男に自動拳銃を渡す。そして小さい声で、

 「好きにやれ」

 とささやく。すると、その若い男は、

 「へい、光栄です」

 と答えた。

 男は遊底を引きながらまず、向こうに転がっている男に向かっていった。革靴の先でうつ伏せになっていた顔を上げる。その顔は涎と血でグチュグチュになっている。目はうつろで右目が明らかにおかしな方を見ている。ロンドンとパリが同時に見られるという伝説の散眼を、いつの間に身に着けたのであろうか。

 「おい、何か言い残すことがあるか」

 それを聞いてもなかなか反応が返ってこない。ようやく口を開けて、声らしきものが出てくるかと思われたとき、引き金が引かれ、天井の低い地下室に乾いた音が反響した。

 「ぎょえええええええええっ!」

 弾丸は右のひざを貫通した。その痛みに、どこにまだそんな力が残っていたのであろうかと、いぶかしむぐらいのた打ち回る。

 「あ? すまん、聞こえなかった、もう一回言ってくんね?」

 もう一回銃声。次は腰。

 「ふんぎゃあーーーーーーーー!」

 さらに銃声、またまた銃声。次は肩、次は腹。最初は「いてててて」とか「うげえええ」とか言っていたが、そのうちさすがにどんな痛みにも叫ぶ気力は泣くなり、どうやら意識もなくなってしまったらしい。それを見て心底つまらなそうに

 「なんだもう終わりか」

 と頭をぶち抜いた。そこからピュウッと赤黒い液体が噴出した。

 それをしばらく眺めていた後、おもむろにマガジンを確認した男は、ふと気づいて、角縁めがねに、

 「あっちもあっしがやっちゃっていいんですかね」

 と私のほうをあごでしゃくる。角縁めがねは、うむ、と少しうなってて、集団のほうを見ると、

 「じゃあ、こっちをやりたいやつ、誰かいるか」

 群集の中からいくつもの声が上がる。しかし、何人もの人間が一斉に名乗りを上げるので、何がなんだかわからなくなってしまう。角縁めがねは両手を差し出し、それを押しとどめると、

 「こいつをやりたいやつ、手を上げろ!」

 と叫ぶ。黒い海の中から何本もの手が挙がる。まるで戦後の混乱期に、大陸から日本へ引き上げる大群衆の中で、親と子が人の流れに巻き込まれ離れ離れになってしまい、自分はここにいるよと必死に相手に伝えるために、手を上げ声を上げるのだが、それでも相手にはなかなか伝わらないのであるかのようであった。

 「じゃあ、そいつらでじゃんけんだ!」

 というわけで最初はグウッ、じゃんけんぽん! が始まった。しかし、何しろ人数が多いし、相手がどんな手を出しているのかもよく見えないし、仕方がないから、「おい、グウ出したやつ、グウ出したやついるか?」と呼びかけるのだが、四方八方から悪口雑言罵詈讒謗が飛び交い何がなにやらわからなくなってしまう。業を煮やした角縁めがねが、じゃんけんに参加していない下っ端の一人に、

 「おいお前、ちょっと肩車をしろ」

 と命令し、しゃがんだこの男の首にまたがるのだが、この下の男、力が弱いのか何なのか、角縁めがねを担いで持ち上げたとたんにふらふらし、なかなか安定しない。それに振り回されて、こんにゃくでできたメトロノームのように、ゆらゆら揺れながら角縁めがねは、少し高いところから沸き立つ黒い絨毯に向けて、

 「おい、分かった、こうしよう。じゃんけんで俺に負けたやつは手を下ろせ。そして俺に勝ったやつだけ残れ。ズルはなしだぞ。周りの人間はよく見ていろ。ズルをしたやつは、指を詰めてもらうからなうわあっとっと、堪えろ! 堪えろ!」

 危うく角縁めがねを後頭部から床に叩きつけそうだったが、どうにかバランスを立て直した。そこへ群れの中から、質問の声が上がった。

 「あいこはどうするんですかい?」

 「あいこも負けだ。早いところ終わらせたいからな」

 えーーーっ、という声が上がる。そのとき、後ろに倒れそうだったのを何とか立て直した反動で、今度は前につんのめった。下の男が、足を大きく踏み出し踏ん張ったので、どうにか堪えたが、その勢いで角縁めがねのめがねが飛んでしまった。

 「ああっ、めがね、めがねめがね、おれのめがね」

 角縁めがねは届くはずもないのに、めがねを拾おうと手を振り回したが、甲斐もなく下の男の足元からグシャッという、無情な音が聞こえた。

 「ああっ、てめえ、よくも俺のめがねを、貴様、指じゃ割が合わん。腕だ! 腕を詰めろ。二度とじゃんけんできねえ体にしてやる!」

 「そんなぁ、無茶いわねえでくださいよぉ」

 「あにぃ、やるんなら早くやりましょうよ、じゃんけん」

 「ああ、そうだった、分かった分かった、すまんな。それじゃあ、最初はグウッ、じゃんけんぽん!」

 よしっ! とか、くそっ! とか、おいお前手を下げろ、などの声が上がる。

 その間、私が何をしていたかというと、コンクリートむき出しの冷たい床に、じんじんと熱の籠った体で転がったまま、ただ「これは夢だこれは夢だ」とか、「夢になれ夢になれ」とか、「起きろ! 起きろ!」とか、自分に向かって呼びかけていただけだった。ああ、このロープさえ、このロープさえほどけたら、指で頬をつねって、これが夢であることを証明できるのに、このロープがあるためにそれすら適わないとは、なんとも情けない。せめて自分が何でこんな目に遭っているかさえ思い出せたらなあ。その失われた記憶の唯一の手がかりは、「こんな記憶喪失は困るなあ」という話をどこかで知り合いとしたという記憶なのだ。この記憶がうっすらと残っているから、実際に非常に困る記憶喪失の仕方をしてしまったときに、まずそれを思い出したのだろう。そのやり取りが、誰とどこでいつなされたかが分かれば、芋づる式に他の記憶も思い出せるかもしれない。記憶とは大きな枝振りのよい木のようなものであり、その枝のどれかひとつでも風が揺すれば、いずれ全体に波紋が広がり、固有振動を効率よく起こせば最後にはぽっきり折れてしまうのである。だから何かひとつでも思い出せばいいのだ。と、そのとき、

 はっと気づいたら、先ほどまでの黒スーツたちのがやがやがおさまっていることに気づいたのだ。そしてその中のひとつがカツカツ革靴で床をたたく音を立てて、近づいてくることにも気づいた。そしてそのほかのいろいろなことにも気づいた。その中のひとつは、どう説明してよいやら、どうも私ははっと気づいてはいなかったようだということだ。いや、一つ前の「はっと気づいた」は確かにはっと気づいたのだが、そのもう一つ前の「はっと気づいた」つまり「はっと気づくと周りを黒スーツの人たちに囲まれていて、自分はロープでぐるぐる巻きにされている」の部分のはっと気づいたは実ははっと気づいていなくて、どうやらその後もしばらくぼうっとしていたらしく、そのことに今さっきはっと気づいたついでにはっと気づいたのだった。つまり、あれだ。むかし井上ひさしが出版社で缶詰になっていたとき、気分転換に編集者の引き出しの中から小説の投稿作を引っ張り出して読んでいたときに見つけたという「朝起きたら(このときはちょうどカフカがブームになっていたのだ)真っ暗で何も見えない。いったいこれはどうしたのか、女房が俺が寝ている間に俺を殺すために顔に硫酸でもぶちまけたのか、それとも世界が滅んでしまってすべてが闇に包まれたのかと、主人公がしばらく思案しているのだが、ふと気づくと自分がまだ目を開けていなかったことに気づく」という小説と同じオチだ。いやオチの鮮やかさでは向こうのほうが断然上だ。こっちは無茶苦茶だ。世の中は無茶苦茶、そうだろう? まあそんなことより死ぬ寸前になってようやく目が覚めたのだから(目が覚めても今までのことが夢だった、ということにならないのが玉に瑕だが)、これでようやく何があったのかが思い出せる。私はどうしてもセックスがしたかったので、知り合いと一緒に夜道で適当な女を捕まえて殴って犯したら、予想以上に抵抗したので、腹が立って首を絞めたり棒で叩いたりしたら動かなくなって、怖くなって海に捨てて逃げたら、その女が実は暴力団の組長の愛娘で、警察より早く私たちを見つけて、走りよってきた真っ黒な外国車に、突然引きずり込まれて、ここに連れてこられたのだった。記憶喪失の話はその知り合いと、手ごろな女を探して夜道を歩いていたとき、手持ち無沙汰になって話したのだった。しかし、思い出せそうなんだけど思い出せないのはすごく気持ちが悪かったので、思い出せてよかったよかった。

解説

何を考えてこんなの書いてたんでしょうなあ、という作品である。正直な話。

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