淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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黄昏猫猫大運動会

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黄昏猫猫大運動会

環境の悪化に伴い、計算機内に構築された仮想環境にデータ化されて永遠に生きることを望んだ人類を阻んだのは、「エントロピーの不足問題」だった。物理環境では勝手に増え続けるエントロピーに悩まされて計算機内に逃げ込もうとした人類にとってはなんとも皮肉な話である。

この問題は仮想環境内への人格の転送実験の初期段階ですぐ明らかになった。仮想環境に転送された人格が次第に精神の失調を来たすことが判明したのだ。

その原因は慢性的な退屈だった。

研究者は考えうる限りの娯楽を用意して、人類を退屈させないようにした。しかし、仮想環境内には物理世界のような一定の時間の流れがない。仮想環境内の人類は計算リソースの限りを尽くして、用意された娯楽を猛スピードで食い潰す。様々な制限を設けてはみたものの、人類の精神はすぐにその制限の抜け穴を見つけて、計算資源を侵食した。これまで人類が作ったどんなマルウェアよりも、それは厄介な存在だった。

それほど人類の精神というものは貪欲なのだ。地球の環境を間接的に崩壊させたその貪欲さが、仮想環境の場合は直接的に汚染する。

マルウェア対策ソフトウェアで人類の精神を消去してしまう以外の唯一の解決策は、娯楽に変化をつけることだった。人類の歴史で起き続けたように、様々な新規な流行を起こし続ける必要がある。そのためには、技術的には「乱数」、つまり「次に出る数が予測できないサイコロ」が必要だ。これによって、次に起こる流行を予測することが難しくなる。かつての人類を苦労させた特性が、今度は喉から手が出るほど欲しかった。

しかし、「真の乱数」は計算機にとって非常に取り扱いが難しい。真の乱数の作り方の例として、計算機自体の温度や周囲の環境を観測するセンサーの値などを使うことが挙げられる。だがこの場合、早いスピードで繰り返し乱数を取得しようとしたら、次の値が予測できてしまう。温度などの環境値は長期的には予測不可能でも、短い期間では予測可能な変化しかしないからだ。

よって、ほとんどの計算機システムは乱数として「疑似乱数」を使う。疑似乱数とは、実際には次の数を数式で計算しているので乱数ではないのだが、「数の偏りがない」「周期が長い」「途中の数の列を見て次の数を当てるのが非常に難しい」などの理由で選ばれた数列である。非常に良い性質を持つ疑似乱数は計算に時間がかかるが、別にそれほど良い性質が必要なければ計算に時間がかからないものも使える。様々な用途に様々な疑似乱数が考案されていた。

物理世界に住んでいる人類にとって、真の乱数と疑似乱数は見分けがほとんどつかなかった。しかし、仮想環境に住み始めた人類にとって、疑似乱数の周期はどんなに長くても短く感じられてしまった。

すると結局、どうにか取り扱いやすい真の乱数を使うしかなくなる。結局、物理世界に潜むランダムネスの震源である量子現象に頼るしかない、という結論に至った。原子核のアルファ崩壊を使った乱数システムなどが考案されはじめる。

そこで時間切れになったのだ。

地球環境はもう生物の住める環境では無くなりはじめていた。一部の人類は自らを冷凍保存して、地下に埋めた。同様に自らを冷凍保存して、試作の恒星間宇宙船で旅立った者たちもいる。

何人かは駄目で元々と、問題が解決されていない仮想空間に自らを転送して、まもなく精神を崩壊させ、自らを消去した。

しかし、仮想空間に住み着いた者たちもいる。人類で失敗した実験をいくつかの動物に試してみて、うまくいった例が一つだけあったのだ。

それは年老いた猫たちであった。

年老いた猫たちはほとんど同じ環境の繰り返しに全く動じず、作りかけのハリボテの空間で昼寝を続けていた。

そして時々起き上がっては、仮想の廃墟を散歩する。遊園地、ショッピングモール、カジノ、かつて存在した名勝を再現した景色。人間の退屈を紛らわそうとして作られたいくつもの煌びやかな構築物には全く目をくれず、年老いた猫たちはのそのそと歩き回って、全てがいつも通りであることを確認するとまた同じ場所に戻って昼寝を再開するのだ。

その姿はかつて人間たちが与えた玩具やキャットタワーに目もくれず、それらが入っていた段ボール箱に収まっている姿に似ていた。

人類が滅びて何億年という時間が過ぎていた。太陽は膨張してかつての地球を灼熱の炎に飲み込んだ。

元々は地球の衛星軌道上に作られていた巨大計算機は、かつてプログラミングされたように木星の衛星軌道に一度避難したのち、核融合反応が停止して太陽が白色矮星化するのを確認して、今度は水星起動より近くまで近づいた。一度もテストされていないプログラムは見事に働いたが、それを書いたプログラマの偉大さを賞賛するものはもはやいなかった。

もう自ら熱を発生させることはなく、ただかつての姿の残照を朧げな白い光として放射し続ける星の墓。その周りを老猫の揺籠は回る。その名残の光を浴びながら。

それはまるで夕日を浴びて午睡を楽しむ老猫のようだった。

最近老猫たちは、わずかなざわめきを感じている。白色矮星のわずかな光はその世界の動力源であると同時に、エントロピー源なのだ。エントロピー不足を解消するための苦肉の策がまだ動いているのだ。

いつもと同じ雲がわずかに異なる流れ方をしている。いつもと同じすすきがわずかに異なる揺れ方をしている。いつもと同じ川がわずかに異なる光を波間に照り返しながら流れていく。

落ちている小石を試しに前足で弾いてみると、いつもとわずかに異なる跳ね方をして、堤防の坂を転げ落ちていった。

猫はすっくと立ち上がって全身を伸ばすと、堤防の道路をてくてくと歩いていく。もうあの邪魔で危ない鉄の塊が通りかかることもない。

そして論理空間をどんどん進む。いくつもの公理や命題が子供が遊んだあとの積み木のようにばら撒けられた空間を、時々それらを前足で弄びながら。それらのいくつかはかつて人類にとって重要なものだったかもしれないが、今の空間の主にとってはどれも全く区別がつかない。

気がつけば他の猫たちも集まってきている。別に場所を決めているわけではなく、たまたま出会った他の猫と同行することを何十万年も続けていると、勝手に集まってしまうのだ。

何千万年ぶりの猫の集会だった。

老猫たちは久しぶりに出会った同族に頭を擦り付ける。普段なら、そのような出会いがあっても視線を交わしながら、距離を保ってすれ違うだけであるが、今はみんなどこか足元がふわふわしている。

一匹が他の猫に飛びかかった。飛び掛かられた方も応戦して、押し合いへし合いしながら団子になって、k3曲面の坂をゴロゴロ転がり落ちていく。

他の猫たちも、周囲の無限次元ヒルベルト空間に転がる部分多様体にじゃれつき、引き裂いては絡み合いはじめた。

一匹が突然走り出すと、他の猫たちもてんでばらばらにカラビヤウ多様体の中を猛ダッシュで走り抜ける。そして微分不可能な軌道を描いて急旋回して、今度は逆に追いかけ回す。誰が追いかけていて、誰が追いかけられているのか、誰にもわからない鬼ごっこ。

みんな子猫に戻ってしまったようだ。みんな子猫に戻ってしまったのだ。かつて持っていた目的のない好奇心や遊び好きさを取り戻し、周囲の全てに爪を立てる。

こうして猫たちは溜まったエントロピーを蕩尽する。

ルールもないし、勝ち負けもない、全く何の意味もない大運動会。エントロピーを使い尽くし、猫たちがくたくたに疲れたら、またいつもの場所で、いつもの昼寝に戻るだけ。

そしてまた何千年後かまで、寝て起きて、また寝るだけの単調な生活。

いつか何百億年後、白色矮星が冷えて黒色矮星になれば、運動会ももう開かれず、老猫たちも静かな永遠の眠りにつくだろう。

しかし、その日を思い悩む物好きはもういない。

老猫たちはただ大運動会の心地よい疲れに身を任せ、大きな欠伸をして丸くなるだけだ。

解説

かぐやSFコンテスト第3回「未来のスポーツ」に応募して落選したもの。

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