淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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And now, for something completely different

全て捨て去る前に

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全て捨て去る前に

 宇野愛花は速やかにすべてを失っていった。

 まず彼女が働いていた工場が閉鎖した。給料は支払われなかった。何人かの工員たちは団結して行動を起こそうとしたが、彼女にはそんな気力はとてもなかった。結果として彼女の手元には、工場が稼働していた最後の日に作っていた大量の葛餅だけが残った。

 着ない服と読まない本が積みあがった部屋にこもり、しばらくは葛餅を食べて生活していた。しかしいくら保存料を入れていても、次第に妙な臭いを放ちはじめたので、まとめて捨ててしまった。

 それがきっかけで、本も売った。二束三文だった。服も売った。やはり大した金にはならなかった。

 働かなくてはいけない潮時だった。それは分かっていた。

 しかし、どうも働く気にならなかった。もしかしたら、それも捨ててしまったのかもしれなかった。

 仕方がないので友人から金を借りた。貸してくれる友人はあまりいなかった。貸してくれない友人に何度も金の無心をしたら、連絡が付かなくなった。金を貸してくれた友人も、金を返さなかったら、やはり同じ結果になった。

 親を頼るしかなかった。しばらくは、家にいさせてもらえた。ありがたがるべきなんだろうな、と思った。何度か実際にありがたがろうと思って、礼を言ってみたりもした。しかし無駄だった。彼女は家を追い出された。

 昔の恋人に連絡を取ろうとしたりもした。すでに結婚していた。弾き語りでもしようかと思ったが、楽器はとっくに手放していた。春を鬻ぐのには自分は年をとりすぎていると感じていたし、何より面倒だった。路上に敷いた新聞紙の上に日がな一日座って、時々ちゃりんと音を立てる鰯の空き缶を眺めていた方が楽だった。

 缶に飛び込むときにいつになく重い音を立てた大きな額の硬貨に顔をあげると、赤ん坊の乗った乳母車を押して歩く夫婦の片割れがあの人に思えた。しかし向こうはこちらに気付いた様子はなかった。

 その金で酒を買った。

 廃棄される弁当を横流ししてくれた色の黒い外国人の店員はいなくなっていた。どうやって食べるものを得ればいいのか、酒を飲みながら途方に暮れた。

 夕日が落ちるのを見ながら、橋の下に横たわって目を閉じた。闇の中を、どこか遠い国から連れてこられて捨てられた巨大な鼠たちが這いずるのを感じた。彼らは彼女の周囲に身を寄せて、温めてくれるようだった。

 久しぶりにぐっすりと寝られた。

 しかし鼠たちは皆、彼女を置いて水の中に潜っていってしまった。彼女はまた一人ぼっちになった。

 雨が降り出した。気づくと川の流れが盛り上がっていた。危ういところで目が覚めて、彼女は堤防を這い上ろうとした。手の下で泥がボロボロと崩れた。振り返ると、わずかに残った持ち物はすべて水が押し流していた。

 一晩中雨が降り、彼女は一晩中それを見ていた。水面はどんどん上がってきて、彼女は飲み込まれる覚悟をした。しかし、あるところまで上がると、そこで不思議と止まってしまった。

 朝になって彼女が振り返ると、濁流に飲み込まれて町が消えていることに気付いた。彼女のすぐ横で堤防が決壊していた。彼女は孤島になった小さな地面に座り込んだ。日が昇り、日が沈んだ。

 水の流れの音以外何も聞こえなかった。昔読んだ聖書の記述を思い出していた。神は世界を覆う水を二つに分けて、乾いた土地を作った。今、その逆が起きているのかもしれなかった。次に起こるのは、光と闇が合わさることだと彼女は考えた。

 彼女の胸に不思議な期待が湧き起こった。彼女はすでにありとあらゆるものを失っていた。肌に張り付いて気持ちの悪い服はすでに脱ぎ捨てて、流れの中に放り投げてしまっていた。

 しかし、まだ一つだけ残っていた。それは彼女自身だった。

 ついに、それすら失う瞬間が近づいているのだ。本当にすべてを失える瞬間がもうすぐそこまで来ているのだ。

 あと時の円環が一巡りしたら、運命の糸車が一回りしたら、その瞬間が訪れるはずなのだ。

 太陽が天の頂に昇りつめ、止まった。大いなる正午、永遠の正午だった。世界のすべてが、今が彼女の番、この時こそ彼女の時であることを告げていた。

 そして彼女は自分を投げ捨てようとした。

 結論を言えば、それはうまくいかなかった。

 彼女は災害派遣された自衛隊に救助されて、病院に入れられた。

 家族が彼女に会いに来た。かつての友人たちも。

 その中には、子どもを抱えたあの人もいた。

 皆、彼女に支援を惜しまないと約束した。

 彼女はただぼうっとして宙に視線を彷徨わせていた。

 彼女が何も答えられないのは、被災の心的外傷からだとみな思った。

 しかし、真相は違った。

 彼女には理解ができなかったのだ。なぜあの時、終わりの瞬間が、上がりの瞬間が訪れなかったのか。なにが悪かったのか。なにが間違っていたのか。なにが足りなかったのか。

 そうだ、足りなかったのだ。

 彼女が彼女以外何もかも失ったときに、何かをするべきだったのだ。

 しかし、一体何を?

 その瞬間に何をすればいいのか、何を叫べばいいのか、自分の名前すら失ってしまった彼女にはわからるはずもないのであった。

解説

 どうでもいいのですが、ミタンニ王国ってロマンを感じますよね。Twitterで突然「うにうに」言い始めた人が面白かったので、思いついた小ネタです。あとurlがネタバレだとか、そういう感じの話です。

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