数取り器
「いづれの御時にか、道を歩いている最中のことである。歩道脇においたパイプ椅子に、数取器を片手に座っているおっさんがいた。
ここまでは何の変哲も無い話だ。変哲好きの皆さん安心して。重要なのはここからです。
なぜ私がその男に注意を引かれたかと言うと、一見交通調査をしているかのように見えるそのおっさん、道行く人々を一心に眺めている割に、指の方は一切動いていなかったのだ。
それだけだったら、私も何も気がつかず、何にも知らずに通り過ぎていったのかも知れない。平和だ。ライプニッツの言っていた予定調和に支配された最善世界とはかくのごときものであろう。しかし、こんなことを私が語りはじめてしまっている時点で、それ以上の異常がすでに起きてしまっていることは必定。私がその男の目の前を幸か不幸か横切ろうとしたその瞬間、目敏い私の耳がカチッという音を捉えてしまったのだ。
実を言うとそのときになって私は初めてそのおっさんの存在に気がついた。大変不注意な話で、もしおっさんが腕利きのスナイパーであったら私の命はなかったなと気づいたのは約二年と三日後の話である。しかしその時にはそんな反省をしている余裕はなかった。私はまたしても謎の虜になってしまったのだ。かつて日清カップ焼きそばUFOは茹でているだけで全く焼いていないのに何故UFOと呼ばれるのかという謎を解くために、MJ-12と接触すべく単身エリア52に潜入したときも、最初は単なる小さな引っかかりに過ぎなかったが、最後には青い血の人間達を巡る世界全体を巻き込むクリスマスの陰謀に足を突っ込む結果になってしまった。始まりはいつもこっそりと始まり、気がついたら終わってしまっている。始まりきってから慌ててももう遅い。
私は、一回通り過ぎてから、もう一度そこまで戻ってきた。あのカチッという音が気になって仕方がなかったのだ。もしそのおっさんが尋常な交通調査なら、もっとカチカチとリズミカルにカウントが回り続けているはずだ。しかしおっさんが指を屈したのは、私が通り過ぎる短い間とは言え、あとにも先にもあの一回だけだった。私は、単なる自意識過剰だったのかも知れないが、それが私を数えたものであることを、直感的に理解していた。メネメネテケルウパルシン。数えられたり量られたり分けられたりするのは、私がまだ幼くてバビロニアの王だった頃からあまり好きではない。
取引先との面会に間に合わなくなってしまうことを承知で、私が現場に戻ってみると、おっさんはやはりそこにずっと座って、数取器をただ握りしめてずっと通り過ぎていく雑踏を見つめ続けていた。やはり、おっさんはただ漫然と座っているだけで、何も数えていないように見える。
しばらく交通調査員調査をしていても、何の収穫もえられず、もう少し近づいてみてみようと思って、おっさんの前を通り過ぎたとき、またおっさんの指が動き、カウンターが回るカチリという音が耳に冷たく響いた。やはり私を数えている。
ということはこのおっさんは私の交通量を数えているのであろうか。誰が、何のために。一体、私がこの通りを何回往復するかを数えて、何の得があるというのだろうか。
かっと頭に血が昇った私は思わずおっさんに掛けよって、問いただそうとする。
――おいおっさん!
しかしおっさんは目を上げようともせず、全く調査対象が通らない通りに目を走らせ続ける。
――一体あんた何を数えているんだ。どういう目的で俺を数えているんだ。俺は数じゃない、人間だ。だから数えるのは止めてもらおうか。あんたに数えられるたびに、俺はなんだか数になった気がして、気持ち悪いんだ。
一生懸命その場で抗議の理由を考えているから、少々強引で無茶な議論になってしまっている気もあるが、細部にこだわっている場合ではない。
――おいおっさん。聞いてるのか?
そもそもこちらの声が届いているのか分からない程の無反応である。私はそのときになって初めて真空実験に使われたベルの気持ちが分かった気がした。本当に悪いことをした。
――おい!
胸ぐらを掴んでこちらに無理矢理向かせようとしたその瞬間、おっさんがわずかに動いた。親指でボタンを押したのだ。カウンターがカチリと音を立てて周り、2という数字がスリットから消え、わずかに下半分だけ見えていた3が現れる。
私は思わず顔を上げる。おっさんの視界を瞬時に追いかける。人混みの中にブリジット・バルドーを思い起こさせるピンクのギンガムチェックのフレアスカートの端が吸い込まれていくのをわずかに捉えた。戸惑いの一瞬の後、私は走り出していた。
いくつもの肩を肩でかき分け、人海を泳いでどうにか先ほどの女性にたどり着く。首を隠すくらいの黒いセミロングヘアがわずかに横に揺れるのを見ながら、はてどうしたものか、と気がつく。一体どういう用件で話しかければいいものか。いきなり奇妙な交通調査員についての奇妙な話をし始める奇妙な男に話しかけられるという類いの奇妙な体験をすると、多くの尋常一様な人々はそもそも相手の話を聞かないことを、いくつかの経験から私は学んだ。しかしここで話しかけないと、私と彼女の共通点について、一生知ることができないままになってしまう気がする。いや、絶対に知ることはできまい。いま、ここでこの喉から声が出なければ、真実は超光速で光錐を横切って、時間的領域から空間的領域へと逃走してしまう。
超光速について考えたせいであろうか、周囲の時間の流れがゆっくりとなったような気がした。だが相対性理論で周りの時間の流れがゆっくりに見えるのは実際に亜光速で動いたときであって、それについて考えただけで時間がゆっくりになるなんて聞いたこともない。そんなことを考えていた時だった。あのおっさんが数取器に指を掛けてサムズアップをした姿で脳裏に浮かび上がった。そしてこう言ったのだ。
――人生のアウトカウントは一つしかない。
なにいってだこいつ。
それだけ言って満足したのか、おっさんは私の脳裏から去って行き、二度と帰っては来なかった。そして時は動き出す。急に時が動き出した結果、私はなにもないところで躓いて盛大に転んでしまった。前のめりに倒れ、堅い歩道にキスをして、鼻血まで出している私に手を差し伸べる者がいた。顔を上げると、あのピンクのギンガムチェック。
――大丈夫ですか?
そう、これが私と、君のママとの出会いだったんだよ」
「ママァ! パパがまたヘンな話してるう」
「無視しなさい。無視」