淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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足の踏み場

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足の踏み場

気付いたら足の踏み場が部屋のどこにもなくなっていた。

もう少し早く気づいていられれば良かったかもしれないが、私がそれに気付いたのは足を踏み下ろそうとしたその瞬間だった。

しかし、足の踏み場がなければ足を踏み下ろすことはできない。これは真上に大量の小石を投げたらその直後に大変なことになることくらいに当たり前な話である。

私の両足は結局どこにも着地点を見出せぬまま宙に浮かんだままだ。

これではどうしようもない。その場にいることも、移動することも不可能だ。ちょっとした板挟みだ。

椅子にでも座っていれば人心地もつけたかもしれない。しかし、椅子は部屋の反対側であり、今や世界の反対側くらい遠く感じられる。

この状態で次の一手、いや次の一足を考えないと言えないのだ。一足飛びの思考は禁物だ。地に足のついた思考こそ今必要なものだ。

私は懸命に思い出す。足の踏み場を最後に見たのは一体どこだったか。

どこかの引き出しに入れてそのままだろうか。ポケットに入れたまま洗濯でもしてしまったのであろうか。私は実際この手のミスを始終おかしてばかりだ。

家の中にあってくれれば幾分ましな方で、もし外で落としてしまっていては万事休すだ。

まだ足の踏み場があったときにしっかり部屋の片付けをしておけば良かった。そうすれば足の踏み場を確保し続けることができたであろう。足の踏み場がなくなってしまうと部屋の掃除すら不可能になる。これは実際ちょっとした罠だ。世界はこの手の罠で一杯であり、不親切極まりないことに誰もそのことを教えてくれない。

結局引き出しにしても洗濯機にしても、足の踏み場がなければ確認に行けない。つまり足の踏み場をどこで失えたかを確認することは、足の踏み場を確保したあとにしなくては行けない、ということだ。人間は頭でっかちなのでどうしても確認を行動より前に持っていこうとしたがる悪い癖がある。しかしまずは行動なのだ。

というわけで私は特に何の計画もなく足の踏み場を探して旅に出たのだった。

バラナシの混沌とした雑踏に佇む波羅門と、永遠に続く輪廻や小宇宙なる自我と大宇宙との合一について語り合った。彼はもう何十年とそこに立ち続けて一度も足を上げていないという。

ブエノスアイレスの図書館で盲目の図書館長と、この世に一冊だけ存在する自分のためだけの自分だけが読める本や宇宙全てを包含する終わりも始まりもない本について語り合った。彼は自分が移動するのではなく世界が自分の周囲を移動すると主張して憚らなかった。

結局どこにも足の踏み場はなかった。私の足はどこでも宙ぶらりんのままだった。夜空を見上げていると、どうしようもない空っぽ感が胸に満ち溢れた。遠い遠い宇宙のどこかの惑星には、足の踏み場があるのだろうか。それともこの膨張し続ける宇宙のどこにも足の踏み場はないのだろうか。足の踏み場もないまま、この宇宙はどこまでも広がって死ぬのか、それともまた収縮に転じて一点に潰れるのか。

何も得られぬまま私の旅は終わろうとしていた。気づけば始まりの場所、部屋の中の、足の踏み場がないと私が気付いた場所だ。

青い鳥は青い鳥を探し始めた場所にいた。しかしここに足の踏み場がないのは確認済みだ。もう探していない場所なんて世界のどこにもない。

私はじっと足の裏を見た。人生について思い悩むときにじっと手のひらを見る人がいるとは聞くが、じっと足の裏を見る人は珍しいのではあるまいか。もう長いこと足の踏み場と触れていないせいで、そこは奇妙に柔らかくなってしまった。

なぜ人はじっと手のひらを見るのか。きっと手相を見ているのだろう。人は意味のない模様に意味を見出す。例えそれが偶然の産物に過ぎないものであろうと、何の道標もないよりはましということなのか。

足の上らにも似たような模様がある。足相というのかどうかは知らないが。もしかして、何かが見えてくるだろうか。そう思ってその模様を目で追いかけていたとき、何かが心の中を走り抜けた。何か、思いつきの種のようなものが。

そう、まだ探していない場所があったのだ。青い鳥と一緒だ。それはずっとここにあったのだ。

それは足の裏だった。

足の踏み場がなければ足はずっと宙に浮いたままであり、足の裏はどこにも接していない。

そしてそここそが足の踏み場なのだ。

ここで気をつけなければいけないのが、足の裏同士を合わせてもダメだということだ。

右足で左の足の裏を踏めば、右の足の裏はもう自由ではない。そうすれば左の足の踏み場がなくなってしまう。

左足から初めても同様だ。左足で右の足の裏を踏めば、左の足の裏はもう自由ではない。すると右の足の踏み場がなくなってしまう。

つまりあくまで右の足で右の足の裏を踏んで、左の足で左の足の裏を踏まなくてはいけないのだ。

そんなことが可能なのだろうか、と思うかもしれない。

それは、実は数学が可能にするのだ。

『ウルトラマンA』23話でTACが開発したマシンが「メビウスの輪」を応用して異次元へと向かったことを覚えておいでの方も多いであろう。

要はそういうことなのだ。

足の裏を剥がして代わりにメビウスの輪を貼り付けることにより、私は足の裏で足の裏自身を踏むことを可能にした(数学が多少できる人はメビウスの輪の境界が円と同相であることを付言すれば納得してくれることだろうと思う)。

このようにメビウスの話を曲面に付け加えたものを数学ではクロスキャップという。トポロジカルには私は、ドーナツのようなトーラスにクロスキャップを二つ付け加えた向きつけ不可能局面になったわけだ。

これで、私の部屋には足の踏み場は相変わらずないが、私には足の踏み場はあることになった。これで万事解決である。

完全に満足して、今日も私は部屋の空中に浮き続けているのである。

解説

部屋の片付けは少しだけやりました。

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