A Midsummer Midnight
いづれの御時にか、私がある友人から聞いた話である。その友人は貧乏な辻バイオリン弾きで、人の家の玄関先でホラー映画の効果音みたいな演奏をして、金を払うまでそこを動かないことによってどうにかこうにか糊口をしのいでいたのであった。そんなある日、その友人の窮乏を見かねた私が、ちょっとした仕事の口を彼のところに持ち込んだのである。それはある貴人の宴に余興でバイオリンの演奏をしてくれという話であった。報酬も良く、また宴に供される様々な珍味佳肴も食べ放題だということで二つどころか三つ返事で彼は引き受けた。
案内状によると、その饗宴は町外れの森を通り抜けたところにある、ブロッホの丘と呼ばれる場所で真夜中から行われるらしい。そんなところに建物なんぞあったかと思いながらバイオリン弾きは、父親から譲り受けたもののなかで唯一質に出していなかった一張羅の虫食い燕尾服を着こんで、商売道具を片手に森の中を歩いていった。時あたかもミッドサマー・イブ、短くも濃密な夜を満月の光が影の中から浮かび上がらせていた。全ての物が不思議に息をひそめているのを彼は感じた。
予定の時間に間に合うように、急ぎ足で森を抜けると、そこにはヒースの野原が広がっていた。秋になると紫の花を一面に咲かせるこの野草も、この季節ではハリエニシダに交って痩せた荒れ地にへばりつくだけの地味な低木である。しかし、銀色の月光の中でそれらは、ついさっきまで風に揺られて囁き交わすようにざわめいていたのに急に静まり返り、何かを待ち受けるように、まるでオーケストラの最初の一音、振り上げられたタクトの最初の一振りとほぼ同時に聞こえるはずの音の一塊りを待ち焦れる聴衆のように、静止してしまっていた。彼も思わず耳を澄まし、草の伸びる音、星辰の運行する音、空気中に張りつめた妖氛が過飽和状態になり一瞬で結晶化する音を聞き分けようとするが、もちろん何も聞こえはしない。視線を少し遠くにやると、見渡す限りの荒野に大小の丘がいくつかあるが、その中でも特に大きい盛り上がりが今夜の目的地のはずだ。とげのある草に服をひっかけないように気をつけながら、そこまでかき分けるが、記憶通り建物なんてどこにも見当たらないし、それどころか人影も見当たらず、これから宴が始まるとはとても思えない。もしかして私にからかわれたのかと思って彼は、懐から招待状を取り出すと、月明かりを頼りに矯めつ眇めつしつつ読みなおしはじめる。
「丘に着きましたら、丘のまわりを太陽のめぐる方向に9回かけまわってください。ただし、セントジョンズウォートの草を踏まないように気を付けてください。あなたが相当の乗り手でもない限り、どこに連れて行かれるかは全く分かりませんよ」
いかにも私が書きそうな、なんとも当を得ない文章だと思いながらも、こうなったらとことんまで付き合ってやろうと、月の位置から大体の方角を割り出すと、月と星とそして草花の、人ならぬものたちのみの見守る孤独なトラック競技をはじめた。そして終わるころには汗だくになり、タイを緩め、ジャケットも脱いでしまいたくなっていた。ただ単にうまいごちそうにありつきたかっただけなのに、なぜこんなことをしているのだろうかと空しくなりながら、私がこの光景をどこかから盗み見て馬鹿笑いをしているのだろうと周りを見回す。しかし、何も動く気配はないし、何の物音もしない、と彼は思った。だがそれは、すぐにかすかな物音によって否定される。それはすぐそこの遠い場所から響いてきた。耳を澄ますと逆に聞こえなくなってしまうような、普通の聞き方ではなく第2の聴力が要求されるような音だった。人々の歓声や歌声、皿やグラスのかちあう音。バグパイプの旋律も聞こえる。しかし一体どこから聞こえてくるのであろうか。バイオリン弾きは、地面に耳を付けてみた。それは地下から響いてくるように感じられた。どうやら丘の内部が空洞になっているようだ。だが、入口はどこであろうか。とりあえず丘の上に登ってみようと思い歩き出す。中に入れるなら何か外からでも分かる目印があるはずだ、と考えたのだ。そして足元が留守気味になっていたので、何か柔らかいものを踏みつけたとき、バランスを保ちきれなかった。それはキノコだった。地面から小さなキノコが一列に並んで生えているのだ。その列が少しずつ曲がって野原に大きな円を描いていた。そんなことをなぜか妙に冷静に観察しながら地面に前のめりに倒れこむと、そこは色とりどりの格好をした人々が、揺れ動く蝋燭の光の下、歌い踊り、笑い叫び、口に食べ物を詰め込んでは酒でのどに流し込む、騒がしいパーティー会場だった。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
前のめりに倒れたはずなのになぜか尻もちをついていた彼を助け起こしながら、まるで十字軍時代の騎士のような格好をした男が、テーブルの方に手を引いていく。
「演奏まではまだ余裕がありますから、それまで少し何かをお召し上がりください」
と言って無理やり椅子に着かせる。バイオリン弾きは頭を打ったわけでもないのに、何かくらくらするような、まるで天地がひっくり返ったような気分で、言うがままになっている。視界もまるで目にほこりでもはいったように薄暗くぼやけてしまっていて、動き回る人々に焦点が定められず、まるで彼らが妙に小さく醜悪で猫や梟や鼠の顔をしている小人たちででもあるようなゆがんだ像しか結ぶことが出来なかった。そこへ、
「おや、もしかして御気分がお悪い。それならば景気付けも兼ねての駆けつけ一杯をどうぞ」
真っ赤な液体の入ったグラスを右手に渡される。鼻に近づけると、薔薇やら麝香草やらのいくつかの花の香りが混ざったような匂いがした。
顔を上げると、先ほどまで騒がしかった部屋全体が静まり返って、相変わらず奇妙にゆがんだ顔の群れがちらつく蝋燭の明かりに照らされてこちらを注視している。まるでアンソールの絵みたいだ、と考えながら、ひきつった笑みを顔に張り付かせて、グラスを高く掲げる。
「みなさんの健康と、宴の成功を祈って」
「「「「「「スランジーヴァ!」」」」」」
皆が一斉にグラスを振り上げ、かち鳴らし、色とりどりのしぶきがはねとぶ。目をつぶってガラスを傾け、一気にのどに流し込む。一瞬胃袋が裏返るような感じがしたが、これはまともな酒を久しぶりに飲むから体がびっくりしているだけだと言い聞かして我慢すると、逆に気分爽快、頭の中も視界も晴れ晴れし、部屋も明るくなり、生まれ変わったような気分になった。人々の化け物じみた姿も掻き消え、それよりも目の前のテーブルに並んだ目も眩むばかりの御馳走に目が移った。
「無礼講ですので、どうぞご自由にお食べください」
言われるまでもなく、バイオリン弾きは食い、また飲んだ。料理は全て美味で、目にも美しく、喉越しは滑らか、見たこともない食材がたくさん使われているように見えた。そしてがつがつ腹に詰め込んでも、不思議にまだまだいくらでも入って行くように感じられた。するとそのとき、テーブルの向こう側で突然、頭にブルーベルやハニサクルやユリなどの花を模った帽子をかぶり上下緑色の服を着た男たちが立ち上がり、朗々と歌い始めた。
昼の光のひとかけで、
おいしく焼いたロースト・アリ、
月の光でゆでたハエの卵、
薄切りにしたノミの足、
これらできたて料理のかずかず、
夜霧につけた蝶の羽、
血がたっぷりのブヨ、ホタルの心臓、
これはまた美味しい虹のタルト。
少々食欲をそぐ歌だがこれはこれでいいや、と彼は思い、自分も何か一つ歌ってやろうと立ちあがるが、少し手元が狂ってスープ皿に入れたままのスプーンを跳ね飛ばしてしまい、スープの塊が右目に命中してしまった。急いでナプキンでふき取るが、なかなか右目を開けることが出来ず、うずくまっていると、歩いていた真っ赤な服に真っ赤なマント、下には真っ赤なタイツを穿いた子供が走ってきて声をかけた。
「おじちゃん、大丈夫」
「いや、ちょっと目にスープが入ってね」
そういうと子供は、ポケットの中に手を突っ込んで
「じゃあ、これを塗るといいよ」
と、容器に入った緑色っぽい軟膏を取り出して手渡す。
「四葉のクローバーから作った薬だからよく効くよ」
と言って、そのまま走り去っていく。バイオリン弾きは呼び止めようとするが、次の瞬間には子供の姿はどこにもいない。仕方がないので、その薬を一掬い、右目のまわりに塗ってみる。確かに痛みがすっと引いていく。しかしそれとは別に不思議なことが起きてしまった。両目を開けて物を見ると、全ての物が二重に見えるのだ。華やかなパーティ会場と薄暗い穴倉、着飾った紳士淑女たちとちんちくりんなできそこないの侏儒、豪華な美酒美肴と泥や枯葉やうごめく虫でできた料理。どうやらこれは左目で見ている物と右目で見ている物が違うらしい。眩暈を起こし、ふらつきながら立ち上がろうとするが、まるで体の片方だけ上下がさかさまになっているようで、とてもバランスを取ってられない。そこで何かにすがろうと手を伸ばすと、誰かが手を取って支えてくれた。それは、最初に彼を席に案内してくれたあの男だった。
「そろそろ出番ですが、おや、どうかしましたか」
と心配そうに顔をのぞいてくるその顔は、ハンサムな男の顔と、顔じゅう毛だらけで厚ぼったく腫れた目をした怪物の二重像だ。思わず飛びのきながら、
「あ、あの、スープが目に入りましてですね、ちょっと目の調子がおかしくて……」
と言い訳するように言う。すると男は
「ほう、それは大変ですね」
と言いながら床から何かを拾い上げる。それはさっき目に塗った塗り薬の容器だ。
「これを塗ったのですか」
と訊ねてくる。そうだと答えると、
「誰にもらいましたか」
とさらに訊いてくる。赤い服を着た子供だと答えると、
「パックめ、わざとだな……」
と呟きながら、容器を懐にしまってしまい、こちらに笑いかけながら、
「おかしく見えるのは、左右どちらですかな」
との質問。思わず、
「右目ですが」
と答える。すると男は懐から出した掌を口の前に構え、ふっとバイオリン弾きの顔に何かの粉をふきかけた。バイオリン弾きは急なことに動転し、むせかえりせき込みくしゃみをし、何をするんだと文句を言おうとすると、右目の調子が良くなっていることに気付いた。
「どうです、良くなったでしょう。先ほどの薬は間違った薬だったのです」
と男が言う。周りをどう見回しても、賑やかな宴席以外の物には見えない。
茫然として立ちつくしていると、男が軽く頭を下げ、
「演奏のお時間ですので、どうぞこちらへ。少々遅くなりましたが、主人夫婦からも挨拶が御座いますので」
と案内してくれる。会場の片方に一段高くなった舞台があって、そこで演奏しろというのだろう。いままで、食事の方に夢中で、自分の仕事のことをすっかり忘れていて、急に思い出したので、演奏の演目すらまだ決めていない。いったい何をしてお茶を濁すべきだろうかとあくせく悩んでいると、男が、
「わが主人、オベロン、我らが種族の支配者でございます」
と紹介したのは、色とりどりの花びらと露からできた服を着た男で、横には様々な蝶や蛾の羽からできたドレスを着た美しい女性を従わせている。
「君が今日の主役だね」
と言って手を出してくる。握手をすると、柔らかいような堅いような、暖かいような冷たいような変な感じがした。
「こっちが僕の妻のマブだ」
と紹介されるとその女性は妖艶に笑うと、軽く体を屈めてお辞儀をした。
「食事はどうだったかな」
男の方が尋ねてきた。
「そりゃもう、素晴らしいものでしたよ」
「そうか、それは良かった。おかげさまで、今のところは大盛況だよ。人も集まってくれてよかった」
言われて、もう一度見回してみる。大体食事が一段落ついたところらしく、皆は今ではグラスを片手に談笑をしている。そのとき初めて部屋自体に目が行った。さっきは食事に夢中で内装などを良く見ている余裕はなかったのだ。床はまるで月の光で洗われたようだし、壁は明かりのついたチューリップの花びらのように輝いている。よく見ると明かりになっているのは火のついた蝋燭だけでなくところどころに青ざめた光を放っている物があり、それはよく見るとキノコの一種だった。上を見ると舞台の幕が天井につりさげられているところが何かきらきら光っており、それは蝸牛の粘液に見えた。
「いや、近場にこんなところがあるなんて知りませんでしたよ」
と正直に言うと、宴のホストは笑って、
「我々はあまり、他人に干渉しないし、干渉されるのも嫌だしね。プライバシーというものを大切にしているのさ。それがグッド・ネイバーズであることの秘訣なのだよ」
と彼らのポリシーを披歴した。そしてぱんと手を打ち合わせると、
「そうだ、仕事の話をしなくちゃね。食事が終わると、皆でダンスをするんだ。だからそのために、何か踊れる曲を頼むよ」
と言う。見れば、食べ終わった皿やテーブルを片づけ始めていて、どうやらここがそのままダンスホールになるらしい。そういうことは初めに聞いておかないとこちらにも準備というものがあるし、と焦って、そういえばバイオリンはちゃんと手入れをしているだろうか、手垢や松脂だらけになってはいないだろうかと、急いで確認しようとする。が、ケースの留め金に爪がうまく引っ掛からない。落ち着こうと舞台の上に用意された椅子に座ろうとすると、なぜか座る瞬間に椅子がなくなってしまいもんどりうって倒れてしまう。耳元で「このチクリ屋め」という声が聞こえたが、声の主の姿は見えないので、目を白黒させながらじたばたするばかり。そんなバイオリン弾きをしり目に、支配者と呼ばれた男は手を叩いて、喧々囂々としていた会場を静まらせ、
「さあ、みんな。お待ちかねのダンスの時間だ。今日はどうあがいたって一年に一度しかないミッドサマー・イブ、すでに夜半を過ぎて聖ヨハネの祭日、一年で一番薬草に効き目がある夜だ。思う存分遊びあかそう。実は今日は一年でもっとも短い夜のはずなのだが、幸い我々には時間は充分ある。だいたい我々が時間を気にするなんておかしな話だ。我々にはそもそも時計なんぞ必要ないのだから。だから、一晩中踊り狂うなり、トネリコの棒を持ちハーリングに興ずるなり、騎馬行列に参加するなり、好きに楽しむが良い。この短く、そして終わりなき夜の間を、めいめい自分なりのやり方で騒ぎたてよう」
と演説をすると指を高らかに鳴らす。すると一陣の風が吹き、蝋燭の火を全てかき消したかと思うと、床が透き通って、そこに真ん丸の月が輝く星空が映り、部屋がその光でぼうっと浮かび上がるようだった。壁や部屋の調度類がその内奥から発光キノコのような光を帯びて怪しく煌めきだす。背中から蜻蛉やら蜂やらの羽を生やした踊り子たちがそのダンスホールに踊りだしてくるくる回りだすと、不思議なことに足元の天頂輝く月は動かないのに、周りの星々は北の一つ星を中心に円を描いて動き出した。丁度、踊り子たちのダンスに調子を合わせて。彼女たちはまるで宙に浮いているようだった。
「それでは、音楽をお願いします」
その光景に目も心も奪われていたバイオリン弾きは、そう言われて正気付いた。慌ててケースからバイオリンを取り出す。すると、使い古した手垢だらけのバイオリンがまるで一流の職人が作った宮廷のお抱え音楽家の持ち物ででもあるかのような艶と輝きを帯びている。そして内側から脈動して、お願いだから自分を弾いてくれ、奏でてくれと懇願してくるようだ。バイオリン弾きは操られるようにそれを手に取ると、顎に挟み、目をつむって、弓を構える。後はもう、何も考える必要はなかった。どこからかやってくる曲が彼の体を通り抜けて、バイオリンの弦と弓の間から生まれるのを邪魔しなければいいのだった。今までの人生でこれまで可能だとも思ったこともないような妙なる調べだった。一瞬前の音が消えることに惜別の念を覚える前に、次の音によりまた恍惚とさせられた。その音の戯れの前には形而上的な概念すら一緒に踊りださずにはいられなかった。その場にいたものは残らず舞いに舞った。一人で踊るもの、男女の組になって踊るもの、一列になって踊るもの、輪になって踊るもの。休みなく淀みなく絶え間なく、疲れを知らぬように舞い踊った。バイオリン弾きも、弾きに弾きまくった。メロディは無限に湧き出しつづけた。決して同じものを繰り返さず、少しずつ違うフレーズが力強いリズムの上に乗り、シルフィードの様に空気の中を飛び跳ねる。調律さえまともにされていなかったはずの弦はまるでそれぞれがおしゃべりをするように、五線譜の合い間にしか存在しないような理想化された音を紡ぎだす。もっと世界を舞い狂わせるために彼は弾き狂った。会場が音に満ち、音の圧力で丘の内部の空洞が膨張し、とうとう破裂した。人々は空中に投げだされながらも踊り、バイオリン弾きも夜空に落ち込みながらも両足の体重移動で拍子をとりながら演奏する。地上では、長いたてがみとふさふさした尻尾の白い馬に引っ張られた騎馬行列が、緑色のスカーフを風にはためかせながら、草原を駆けまわる。不思議なことに彼らが通り過ぎた後も、草が踏み倒されてはいない。別の場所では、木の棒を持った人々が二つのチームに分かれ、ボールを取り合い相手のゴールに押し込もうと苦闘している。その周りにはそれを見ながら、競技の参加者以上に盛り上がって野次を飛ばす観衆たちがいる。そしてそれ以上の人たちが地面に輪を描いて回りながら踊っている。その円の一つの中心ににバイオリン弾きは落ちていく。弾きながらゆっくり落ちていく。ゆっくり落ちながら弾いている。気が遠くなるほどゆっくり。気が遠くなっても弾いている。気を失っても弾いている。星辰が何往復もする。景色が溶けていく。踊り狂う人たちも溶けて草原に生えるキノコにだんだん似ていく。それがほとんどキノコの見分けがつかなくなったとき、それはキノコになってしまい、バイオリン弾きはその真ん中で、顔面から地面に突っ伏して気を失っている状態で、目を覚ます。朝だ。
なぜか口の中にたまっていた枯れ葉をぺっぺと吐き出しながら、朦朧とした頭で身を起こすとバイオリン弾きは、こういうとき誰もがするように、きょろきょろと周りを見回した。ヒースの草原の真ん中で、なぜか円形に草が枯れているような場所の真ん中だった。これは俗に「妖精の輪」と呼ばれていて、散文的な説明をすれば、キノコの菌糸の影響により、草が乾燥したり栄養不足になったりするために起こる現象だ。彼は直径10メートル程のそれのど真ん中で寝ていたのだ。彼は起き上がると傍らに落ちていた商売道具を拾って、記憶をたどろうとした。しかし想起の糸はどこかで断ち切られてしまっているようだった。多分飲み過ぎたのであろう、と結論付けて、とりあえず町に変えるとした。バイオリンのケースは見つからなかった。
しかし少し歩くだけで、どうもおかしい事に彼は気付く。まず草原と町の間にあったはずの森が消えている。草原そのすぐそばまで町の端が着ているのだ。町が動いたのか。そんな馬鹿な。では町が大きくなったのか。それも一晩で。
その町もどこか様子がおかしかった。何もかもが見覚えがなかった。町の中心部にあった、教会が見えたので、ようやく自分の町だと確信がついたが、その教会だって、妙に薄汚れて見えた。その向かいにあるはずの市議会はなくなっていて、それらしい建物はもっと立派になって別の場所に立っている。彼の商売場所の一つだった広場の噴水は、確かに噴水はあるのだが、別の物になっている。道行く人々は見覚えのない顔ばかりだし、格好も見たことのない奇妙なものだ。そしてどうも彼らから見たら、バイオリン弾きの風体の方が奇異の念を起させるものらしい。おかしい。何かがおかしい。
そのとき、バイオリン弾きに話しかけるものがいた。
「お前、今まで何やってたんだ」
それは私だった。ようやく知り合いに会えた喜びに顔をほころばせたバイオリン弾きは、昨日の奇妙な出来事を話して聞かせようと、
「お前にもらった仕事に行ってただけじゃないか」
と言ったが、その話の続きは結局することはなかった。なぜなら私が
「お前、三百年も行方不明だったんだぞ」
と言ったのにびっくりし、そして町の変化に得心がいき、さらに自分が音楽を聞かせていたのは妖精たちだったのだということを理解して、言葉を失ったからだった。そのことに気付いた彼に一瞬にして三百年の時の重みがのしかかった。バイオリン弾きは突然しわくちゃの年寄りになってしまったかと思うと、次の瞬間には干からび果て、私の目の前で塵となって砕け散ってしまったという話です。